Cashew books

本を貪るのは好物のカシューナッツを食べるのに似ている

比内地鶏の親子丼

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 秋田旅行の途中、駅で食べた比内地鶏の親子丼。前日からろくに食べていなかったせいか、これが箆棒に美味しく感じた。胃袋が満たされて、その日は結局夜も何も食べなかった。以前の栄養管理を過剰に気にしていた頃と違い、だいぶ自堕落になってきた。

 今年は3つも大病を患い、視界はくるくる回るわ、足は槍で突かれるようだわ、口を塞がれるように息が出来なくなるわの災難な年だった。逆に経験していない病気の方が少ないんじゃないか、と同級生の医者に冗談めかしていわれた。レントゲンも何度撮ったか知らない。ラヒリの「ビビ・ハルダーの治療」という短篇で、レントゲンのほかに写真なんか撮ってもらったこともない、という愚痴があったことを思い出す。

 友人に誘われて、神田松之丞の講談の千秋楽公演を聴いた。ステージから5列目中央の良席で、尋常ならぬ迫力だった。特に、南部坂雪の別れは時代劇で観たのとは印象が異なり、目の前で披露される講談から新たな世界を想像することができた。講談は平面的で、映像と違って変な次元のねじれがない分、始終集中していられる。語ることと演じるという行為との違いについてしばらく考えていたが、講談はある種インタープリターであり、トランスレーターでもあり、巫女に近いのかもしれない。

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内田百閒傑作集(東芝EMI)

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 東芝EMIから2006年に発売された内田百閒傑作集。内田朝雄の渋くて落ち着いた声が百閒の世界観にマッチしていて、何ともいえない。その一から六まで全て耳を通したが、その四の「昇天」の朗読だけは別格だという気がする。何十回と繰り返し聴いて、もはや暗唱できるくらいである。部屋の灯りを消して、暗い静かな環境のなかで耳を澄ますと、何回聞いても恐怖で身の毛がよだつ。

 「冥土」は短くてあっという間に終わってしまうが、「昇天」の方は中篇作品なので、怪談話として聴くにもちょうどいい長さのものという気がする。抗うことのできない非合理的な力が働いているという点で、ブッツァーティの「七階」という短篇を想起するが、「昇天」の方は宗教の信仰の問題も絡んできて、どちらかといえば東洋的な死が描出されているのではないかと思う。それに、他の作品に比べて固有名詞が少ないため、自分の身近な世界の話をされているのではないか、という錯覚にも陥る。

 惜しむらくは、ちくま文庫の百閒集成3にもある「笑顔」(「昇天」の補遺にあたる)がCDに収録されなかったことである。

大人のための残酷童話(新潮カセットブック)

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 ここ数年、文学作品の朗読のCDなどを積極的に聴いている。特に車を運転している時など、SDカードに音源を保存しているので、MUSIC STOCKERというナビのモードで朗読を流すことが多い。せっかくなので、好きな朗読について紹介したい。

 中学生あたりに手に入れたものだが、倉橋由美子の「大人のための残酷童話」のカセットテープ(新潮カセットブック、1988年発売)。いろんな方の朗読を聴いたが、個人的に一番好きなのがこの大谷直子の朗読。(あの鈴木清順ツィゴイネルワイゼンで、原田芳雄の妻を演じていた女優。)

 この残酷童話は人間の本性をパロディックに諷刺していて、毒々しく一切救いのない世界が描かれている。過剰なまでの因果応報、理不尽な暴力を知的、諷刺的に描いているのであるから、それを朗読する者にも無論それなりの知性、諷刺性が求められる。物語の奥深さを伝えるのが朗読であるとするなら、こういう諷刺精神に満ちた作品の味わいを伝えようとすれば、自ずと理性的な狂人にならずにはいられないだろう。

 大谷直子の朗読は、特に「魔法の豆の木」を聴けばわかるが、鬼の母を演じるときの狂気は凄まじいもので、全く狂気のトーンにブレーキをかけようとしない。助動詞すらも諷刺され、「転倒」しているように聴こえてくる。この物語の仮想敵が「常識」であるなら、それなりに緻密で理性的な狂気で対抗することも目的の一つである。いくつかある朗読のうち、狂気性に追随できているのが大谷氏だと個人的に思う。まるで何か映画を観ているような気分に浸ることができるのは、大谷氏の女優としての演技力によるところが大きいのかもしれない。

 余談だが、倉橋は死後に痕跡を詒すことを過度に嫌っていたため、今頃遺した骨を舐められることにはおそらく迷惑千万だろう。舐めるなら例の甘美なマドレーヌの方を舐めたらどうかと思っているのかもしれず、後ろめたい行為であることを自覚したい。

バガヴァッド・ギーター

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 暇なときに、ふと東洋思想の古典を読み進める。『リグ・ヴェーダ』『バガヴァッド・ギーター』――、仏教やヒンドゥー教の素養がないので、古典であるにもかかわらず新鮮に感じる。

 ヒンドゥー教の中心的聖典「バガヴァッド・ギータ―」。気になったのは、「行為の結果を顧みず、行為そのものに専心すべき」という思想。たとえ、戦闘で悲惨な結末が待っているとしても、戦闘すべきである。なぜなら、闘わないことは我執によるものであり、運命としての自己の行為を遂行する方が正しいとされるからである。人間は生きている以上、何等かの行為をしないわけにいかない。全ての人は、プラクリティ(根本原理、物質的原理)から生じる諸グナ(サットヴァ[純質]*1、ラジヤス[激質]*2、タマス[暗質]*3という三構成要素=不変のデーヒン(主体)を身体において束縛するもの)から逃れることはできないのだから、一切の執着を捨てて、常になすべき行為に専心し、遂行すべきである。これによって、身体上の三要素を超越し、主体(個我)は不死の状態に達することになる。

 ギーターでは、ブラフマン(ब्रह्मन् , 梵)における涅槃の境地(brahma-nirvāṇa)に達し、輪廻から解脱することがヨーガの確立であるといわれる。ブラフマンは普遍的な宇宙の根本原理であり、個人の原理であるアートマン(आत्मन् )と一致するというのがウパニシャッドの根柢である。ヨーガの境地に在ることで、万物の中に遍在するブラフマンを知覚できるようになるが、それは分節された現象に対してであって(「分割されず、しかも万物の中に分割されたかのように存在」「万物の外にあり、かつ内にあり、不動であり、かつ動き……」とあるが)、「絶対無分節」井筒俊彦『意識と本質』)の存在と異なるのでは、という疑念が生じる。

 個人的に気になるのは、そのブラフマンの遍在や絶対無分節がどのように小説で描かれてきたか、という点。作者が東洋哲学に造詣が深く、意識して描かれただろうと推測できる文学作品は幾つも思い浮かぶが、畢竟その先で神を肯定するか否か、という問題が生じる。サルトルドストエフスキーも、そういった哲学的現象について小説の題材として描いているが、特定の神を信奉することなく、実存主義を標榜したという事実こそが重要なのだと思う。

*1:汚れがなく、輝き照らし、患いのないもの。幸福との結合と知識との結合によって束縛する。→上方(天界)へ行く

*2:激情(ラーガ)を本性とし、渇愛と執着とを生じるもの。行為との結合によって主体(個我)を束縛する。→中間(人間界)へ行く

*3:無知から生じ、一切の主体を迷わすもの。怠慢、怠惰、睡眠によって束縛する。→下方(獣の世界)へ行く

琳派コレクション

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 秋田近代美で細見美術館琳派コレクション。若冲《雪中雄鶏図》が見れなかったのは残念だったが、代わりに後期は若冲の《糸瓜群虫図》を拝めた。主役が奇形の糸瓜である面白さがあり、周りの生き物が細部まで精密に描かれることで、糸瓜のおかしさが尚更引き立っていた。しかも、きれいな糸瓜ではなく、虫食いの跡のみられる糸瓜を題材にしたあたりに、若冲の自然を愛でる眼差しを感じた。

 神坂雪佳については、芳中の抽象のゆるさに通じるアヴァンギャルドさを感じたものもあったが、琳派的な作風の方が個人的に好きだった。いかに琳派とモダンデザインの間で懊悩したかが伝わってきたが、一緒に行った友人いわく、そのモダンデザイン的な部分が苦手らしかった。

 ***

 若冲の自然観って、どこかで同時代人のキーツに通じるところがあるかもしれない。奇を排除するのではなく、むしろ積極的に描きこむという姿勢は、神秘性や不確実性をも包摂し、豊かな彼岸世界というものを想起させる。見る側を神秘の境地へといざなうのも、<生きとし生けるもの>の多様な生の総体のひろがりを感じるからだろう。

 ちなみに、どうでもいいが、このブログの名前を「万有回」にしたのは、『エンディミオン』の訳「万有の知見に到りゆく神秘の扉」からとった。 R1.11.5"Cashew books"に改名しました。カシューナッツが好きなのでテキトウに。当初、読書ログとしてブログをはじめたものの、全く本について書いていなかったので。少し暇なときに本について書きたいなぁ、とか。(書きたいなぁ、と思ったことはないですが……←ハスミン風)

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漢検1級(R1-2)の感想

 日曜は漢検だったが、土曜の朝から台風の影響で緊急の仕事が入り、その仕事に追われた。漢検直前まで仕事に追われて、本番も仕事着のまま向かうこととなった。

 試験の出来はともかくとして、試験問題の教養的なバランスがとれていることに驚いた。「塵天劫」「打成一片」は仏教、「巫覡」は日本古来の信仰、「阿僧祇」は数字、「壬戌」はお馴染みの干支関連など、特定のテーマに偏ることなく、多岐にわたって上手く出題されていたように感じた。(先日、ブログで学研の新書サイズの辞典を紹介したが、何問か出題されていた。この辞典、かなり漢検対策になる一冊だと思う。)

 それと、「奥津城」の類義語で「青山」。(奥津城は、たしか鏡花の小説を読んでいたときに出てきた憶えがある。何の小説かは忘れた。)こういう問題が1級で出せることに、感動すら覚えた。私は「青山」は正答できなかったが、そんな悔しさが吹っ飛ぶくらい、この問題が出たことに驚いた。(何てったって、青・山どちらも、10級配当漢字ですよ…!)この奇問、おそらく正答率は低いだろう。小学生でも読める簡単な言葉にもかかわらず、奥深く難解な世界がひろがっている。たとえば、「魑魅魍魎」などの難しい漢字をすらすらと書く技術が求められる一方、こういう死角を突く問題にも対応するセンスが求められるということなのかもしれない。

 そういえば、「当て字」の「するすみ」(「漢検2」索引外)を奇跡的に答えることが出来たが、これは単にSNSでのニックネームの一部だからということである。たまたま知識としてあっただけのことだった。一方で、「列卒」(せこ:索引外)の方は答えられなかった。違うと解っていながら、「レーニン」と解答した。索引を正確に暗記するのは必須だが、その索引外のところにも意識的に関心を持って臨まなければいけないと再認識した。

漢検1級(R1-1)の感想

 この頃、仕事が多忙で、あまり漢字の勉強が捗っていない。夜中に参考書や辞書をひろげるが、気付いたら電気を点けたまま寝てしまっている。

 漢字学習の上では非効率的かもしれないが、白川静の辞典を頻繁に参照している。たとえば、「乞」という字は「霊気が流れるかたち」であり、古代中国では「霊気を見てうらなう儀礼」があったという。霊気は地上へも地下へも、自在に行き来するものとして捉えられていた。古代の霊的観念は、動的な対象と捉えられ、現代を生きる我々にとってのそれと大きく異なっていることが判る。(たとえば、アジア宗教論の枠組みで、「グノーシス」が広い霊的概念として使われることがあるが……)

 それで、『漢字音符字典』で「乞」を調べると、「吃・迄・屹・訖」(キツ)、「矻」(コツ)という形声文字の中にも共通する繋がりが見えてくる。「まで」「いたる」などの空間認識にしても、「どもる」という意にしても、さきの霊的儀礼に端を発して派生し形象化した文字に思える。こういう文字の音の系譜を体系的に理解することが非常に重要になってくる。(いっぽう、義務教育で教わるような「部首」の体系の方は、単なる辞書的なカテゴライズに過ぎないことがわかる。)つまり、部首の系列よりも部首ではない音の系列の方が重要で、同じグループのなかで意味や音の相でどういう類似・逸脱が生じているか、というスリリングな判定作業を要すこととなる。

 こういうことを日々調べているのは、記憶の定着という意味では役立つ筈だけれど、漢字検定を受験する上では非効率的だと思う。こういう作業は、学習というよりは寧ろ遊びに近いかもしれない。

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 先日受験した令和元年度1回目の漢検1級の結果は、139点だった。どう頑張っても、現状として概ね7割しか取れなかった。(合格ラインが8割なので、残念ながら不合格)

 ちなみに某サイトの頻出・新出の表を参考に分析してみたところ、私が間違えたもので既出語句のものとしては、以下があった。

 ・嘖々 ※過去6回出題 →頭では分かっていたものの本番で出て来ず。

 ・愧赧 ※過去5回出題 →「赧」の右側が出て来ず。

 ・戛々 ※過去4回出題 →「戛」の下側を書き誤った。

 ・偏諱 ※過去3回出題 →「へん」と誤った。

 ・咸く ※過去2回出題 →「ことごとく」が全く出て来ず。

 この既出5問、計8点分を落としてしまったのは痛手。とはいえ、それでも後13点稼がないといけない。分野別な傾向を見てみると、対類で相当な点を落としている。忽諸、花洛、枌楡、孑孑などは解けなかった。

 それと、四字熟語で「夏虫疑氷(冰)」が解けなかったのは(一級配当じゃないので)仕方ないとしても、「磑風舂雨」(「磑」の書き誤り)、「肩摩轂撃」(「轂」の書き誤り)、「縞衣綦巾」(「綦」の下が出て来なかった)など、熟語自体は知っているのに書き誤ってしまった。ここで6点分も落としてしまうとは全然駄目だな……と反省する。

 7割から8割まで到達するには、(私にとっては)かなり高い壁を乗り越えなければならないようだ……。

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