Cashew books

本を貪るのは好物のカシューナッツを食べるのに似ている

盂蘭盆会

 先日、北海道へ知人の結婚式へ行ったが、古本屋で、石川九揚『書く―言葉・文字・書』中公新書渡辺守章『パリ感覚』岩波現代文庫を購入した。一ヶ月半ほど原因不明の眩暈に悩まされていたが*1、ようやく治まったので、また本を読もうと思ってのことである。

 現在、石川九揚の本を読み進めているが、書画は文字という単位から果てしなく遡る行為であり、言葉を書くことと文字を書くこととの懸隔を突き付けられる。その構造的なちがいに敏感でなければならない。何かでクリステヴァが中国の書画を例に言っていたが、書というエクリチュールは規則へのセミオティックの従属から逃れられないのだろうか。

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 四字熟語辞典を眺めていたら、H30-3の1級の書き問題で出題された「盂蘭盆会」が。盂蘭盆会、って四字熟語だったんですね……。知らなかった。(なぜ四字熟語枠で出さない……)それと、「盂蘭盆+会」という語構成は珍しい。ほかには、例えば「竜華弥勒三+会」「雨霖鈴+曲」とかいうのもある。

 それにしても、ここ最近は漢検1級で仏教用語が出てくるようになった。H30-2では「涅槃会」、今年度1回目では「臘八会」(成道会のこと)が書きで出題された。傾向分析すると、次回も仏教用語枠から何か出される可能性は少なくない。

 『大きな字の難読漢字選び辞典』(学研, 2017)の「祭り・行事」(88p~)にも、「涅槃会」「盂蘭盆」の掲載はある。「~会」でいうと、他には「白馬節会」「灌仏会仏生会)」「御斎会」「修二会」「聖霊会」「施餓鬼会」「節会」「放生会」などあるが、1級配当漢字ではない。ざっと見た感じ、他に1級配当なのは「鷽替」「閻魔参り」「鬼燻べ祭」「鬼儺」「乞巧奠」「釈奠」「夏越の祓」「儺豆」「爬竜」「鞴祭」「巳日祓」などなど。

 さて、この本は新書サイズで軽く、装丁も可愛らしいものに仕上がっていて、とても面白い。巻末には律儀に「新字→旧字変換一覧表」まで載せてくれていて、これ一冊さえあれば通今博古になれそう。難読漢字のセレクトやカテゴリー分けもオリジナルで、編輯された辞典編集部の方はやりがいがあってさぞ面白かっただろうと思う。*2

hon.gakken.jp

*1:目が乾燥していた時、「八ツ目鰻キモの油」というのを飲み続けていたのですが、この缶に「目の乾燥感・とり目」と書いてあった。そういえば、1級配当ではないが、「雀」の下に「目」と書いて「とりめ」と読む国字があったのを思い出した。

*2:企画編集の欄に森川様と田沢様の名前がありますが、森川様は編集長をされている方のようで、主に担当しているのは田沢様という京大院卒の女性のようですね。学研ブログ「ことばを紡ぐ全創作者たちに捧げる──「ことば選び辞典」ができるまで」でこの方が特集されていますが、ことばに対してすごく鋭敏な感性を持つ方だと思いました。こういう辞典を編纂するには、卓抜した言語力・企画力がないとできない所業だと思いました。

視覚について

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 知人とシュトラウスというカフェへ。議題は、青森県立美術館で観たシャガール「アレコ」の4作品について。あるいは視覚について、デュフィの絵はなぜデパートでよく使われるのか*1ベドウィンの身体能力、独眼竜とムアドディブ、3Dは子供騙しに過ぎないのか、等々。人間の視覚は3D技術によって何の影響も受けないという結論に至った。3Dが好きな人は、視覚以外のアンテナに引っかかっているのだろう。少なくとも僕の目は、シャガールの絵画は飽きずに眺めていられるが、3Dの映像を長時間観ることには耐え難い。

 そもそも、5月初旬から目眩に悩まされていて、1か月ほどメリスロンという錠剤を服用している。まるで、毎日メリーゴーランドに乗っている気分である。目について考える機会が増えたのも、そのせいかもしれない。

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 先日、プロティノス『エネアデス』を読んだ。グノーシス派への駁論(Ⅱ, 9「グノーシス派に対して」)が気になっていたので読んだが、生真面目な態度で隙がない。なかなかのマッチョイズムである。ここで家の喩え話があり、「家のできぐあいと建築者を非難しながら住み続ける」人間(=グノーシス派)が批判されているが、そもそも彼らはスキゾタイプであり、終の棲家とすら思っていないのではないか、と言いたくもなる。

*1:現代人は一体デュフィの何に惹きつけられているのか、本来はそのとっつきやすいイメージの正反対なのではないか…、などと考えていたが、もし自分が物書きならこのテーマだけで一つ作品が書けてしまいそうだ。

追憶の老舗喫茶――浅草「アンヂェラス」

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 簡素でありながら上品で奥深い味。(いや、簡素「であるがゆえ」に上品なのかもしれない……)浅草の老舗喫茶「アンヂェラス」のマロンパフェの生クリームをスプーンで掬ったときの、滑らかな舌触りに驚く。昔、ここで知人とチョコレートパフェを食べたことがあったが、一体いつのことだっただろうか。思い出の味、といいたいところだが、口に入れた瞬間、あれ、こんなに滑らかな生クリームだったんだ、と少々驚く。

 「アンヂェラス」は、嘗て谷崎潤一郎が未完の小説で「盲目な蠢動」と称した流動都市・浅草で、1946年から続いている店。外で並んでいる時、人力車の俥夫が「ここは浅草で最も古い喫茶店で有名……」などと紹介しているのが聞こえたが、歴史ある喫茶店なのだ。店名「アンヂェラス」は、初代店主の奥様がクリスチャンで、聖なる鐘の音を意味するとのこと。(友人にそのことを話したら、そういえば、カトリック白百合学園では12時を告げる鐘を「アンジェラス」といった、と教えてくれた。)あたかも礼拝堂を模したような風変わりな建物にしても、随所に関東大震災後の尖端的・大衆的な文化現象の混淆する娯楽都市・浅草の一端を垣間見ることができる。

 谷崎は「日本料理支那料理西洋料理――來々軒、ワンタンメン、蠣めし、馬肉、すつぽん、鰻、カフェエ・パウリスタ」と大正半ばの浅草にみられる新種の料理を列挙したが、外国の生活様式や資本主義が急速に流入し、モダニズムの価値観が社会に浸透するに伴って、大衆が嗜む食べ物も大きく変わっていった。なかでも、当時の浅草は銀座のハイカラな雰囲気とも一線を画すもので、さまざまな異国の食べ物が集まり、食の祭典ともいえる様相を呈していた。この喫茶もその流れに棹差すようにして誕生し、当時は先駆的だったコーヒー(ダッチコーヒーはこのお店が発祥という)やケーキを作り続け、地元民をはじめ、文人や芸能人までもがその味に魅せられてきた。

 さて、僕が頼んだのはマロンパフェとコーヒー、知人が頼んだのがクリスタルマウンテンとサバランなのだったが……お互い少し味見することに。僕は幼少期にサバランが食べられなかったので、苦手意識があったが、一口食べてみると意外と美味しい。洋酒の香りが口中にひろがって、病みつきになりそうだった。手塚治虫が愛したという梅ダッチコーヒーも気になったけれど、梅酒も手作りしていることだし、家で試せばいいかと思ったのでおあずけ。

 帰り際、クッキーを買うのにレジに並んだが、ショーケースに並んだケーキを眺めていたら、なんだか背筋がしゃきっとしてきた。流儀とは何か、と痛感させられた。クラシカルな佇まいで、どれもこれも品を感じるものばかり。しっかりとケーキとして丁寧につくられているのが分かるし、それぞれが完結していて、完成度が高い。いくつも変えようとおもえば変えられるものばかりなのに変えずに守り続けている、信念を貫いているようにみえた。こういう店がいまも浅草にあることが悦ばしくおもえる。

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失敗作であるはずの梅酒

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 梅酒は毎年浸けているが、2年前にブランデーで浸ける際、氷砂糖の配分を間違えてしまったことがあった。だから、いつものラベルも貼らずに、「失敗作」という付箋を巻き付けておいた。

 だが、その梅酒を恐るおそる味見してみたら、意外と美味しい。もしかしたら、他の年に作ったものより美味しいかもしれない。お湯割りにすることもあれば、禁断のビール割りで愉しんだりもするが、やはりそのまま飲むのが一番。

 この頃、仕事のことで胃に穴が開いたような気分で、まったく食欲がなかった。2日間クラッカーとバナナしか食べていなかった。主に減塩のクラッカー(バター)ばかりつまむ日々だが、それではいけないと思い、昨日は水餃子を作った。葉野菜と挽肉と搾菜を刻み茹でた水餃子を黒酢のたれにつけて食べたが、その時にビール割の梅酒を呑んだら、珍しくひさしぶりに食欲が恢復してきた気がした。なんだか嬉しくなって、頂き物のさんまを焼いたり、クレソンのサラダ(レモン、アルペンザルツ)まで作って食べてしまった。

 ときおり、究極にシンプルなものを食べたいと思うことがある。たとえば、パスタやうどんを茹でているとき、具は何も要らないと思うことがある。すごく単純でシンプル、けれども奥の深いものが食べたいという願望。

 シンプルということを自問自答するとき、ヴァレリーの「コローをめぐって」という評論に、「至高の芸術家といえども大理石そのものが宿している以上の着想を抱くことはない」(たしか?)というミケランジェロの言葉が援用されていたことを思い出す。芸術と自然の相関を念頭に置いたものだが、この言葉が好きだ。本当の料理人であれば、調理法に卓越するがゆえに、その調理法いっさいを棄却する、いわば「脱構築」しなければいけないときも到来するのかもしれない。

 さんまを美味しく食べるのに、美味しいさんまと美味しい塩とグリルだけがあればいいのではないか、それ以外のどんな具材も調理法も要らないのではないか、などと思うことがある。パスタとトマトソースも同じことだけれど、そういうことをたまに考えている。

ピロシキの宇宙

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 サンクトペテルブルクから帰国した友人が、本場式に拵えた手づくりのピロシキを持ってきてくれた。僕の方も、作り置きしていたボルシチ風の煮込み物だとか、イチジクやレーズンなどをラム酒で浸けてアイスクリームを作ったものに、アーモンドスライスを薄く水あめで伸ばしたヌガーを添えて出した。

 はじめてボルシチという料理に挑戦したのは、中学生に入った頃だった。といっても、冷蔵庫にあったシチュー用の豚肉を使った簡単なもので、ビーツもサワークリームもない、ボルシチ擬きでしかなかったけれど。その時の思い出というものが未だ身体のどこかに残っていた。今回は、ビーツとトマトピューレを使って、肉団子にもディルなどのハーブを練り込んでみて、律儀にサワークリームを添えることも忘れなかった。

 友人が作ってくれたピロシキも、よくある日本式の春雨の入ったそれとは程遠く、さまざまな種類のハーブが具に混ぜられたもので、とくにディルがふんだんに使われていた。口に入れるたびに、爽快な香りが鼻をつんざく。ピロシキにもボルシチにもディルがたくさん使われていて、なんだかディル専門のコース料理みたいだな、と笑ってしまった。

 ――シンプルな食器が多い、ということを単調なトーンで何度か言われて、風の囁きのように耳に残った。シンプルということは、朽ちてある、古びてあるということであり、僕はそれを歴史的に長く使われ続けてきたものと解釈する。アンティークな洋食器の味は古びていること、その佇まいにこそあるのではないかと思うが、友人のその単調なトーンがそれを肯定するものか、ないしは否定するものかは最後まで判らなかった。

 友人を家に招いて食事するときは、大学時代に国立の古道具屋で購入した明治時代の木製の長机に、アンティークのカトラリーをきれいに並べ、どの洋食器にどの料理を盛り付けるかを綿密に考えて差し出す。その一連の過程を想像するのが愉しい。茶室に厳しいマナーがあるように、食卓を囲むにしてもしっかりとしたマナーがあり、その正しいマナーを知り、踏襲する機会になればと願う。

 好きな洋食器にはどのような料理が似合うだろうか、こういう料理は果たして世界に存在するだろうか、などと思いを巡らすことも多い。シンプルな洋食器にはよりシンプルな料理が似合う気がする。キャベツの千切りでも、アンティークの食器に盛れば美味しい料理に変貌するのではないかと錯覚したりする。いや、キャベツの千切りこそ、出来るだけ小細工せずに、本当に美味しいサラダにしなければいけないと考え直す。自己主張がないものの方が美味しい料理が出来る気がしている。

 こういうことを考えたのも、他ならぬピロシキを食べた所為である。友人も何度もピロシキを納得のいくまで焼き直してくれたらしい。ピロシキという単純な見た目のなかに、さまざまな味が楽しめる、発見と奥行きのある世界が拡がっていたからであった。

暇つぶしのパウンドケーキ

 8月に入ってから、もう3回もパウンドケーキを焼いた。ブルーベリージャム、キウイジャム、焼き苺によるもの3種。ピスタチオやローズマリーを加えたり、ホワイトチョコを練り込んで焼き上げた。

 昔からパウンドケーキを焼くことがあるが、焼く頻度が上がったのは他者からのリクエストによるところが大きい。パウンドケーキを作ったりしているという情報が広まれば、食べたいというリクエストがあり、それに応じてケーキを作ることになる。ケーキを相手方に差し出せば、相手方も何かしらの物を差し出してくる。が、別に何かしらの物が欲しい訳では全くないし、その双方向の贈与を「交流」と呼んでしまうことに対してもただ違和感しかない。

 小学生の時分、ピアノを習っていた女の子から手作りのクッキーやマフィンを頂いたことがあった。セロファン紙にドライフラワーや麻紐で可愛らしいラッピングがされていた。その気持ちに応えるべく、こちらも手作りのケーキを作ってお返ししたら、なぜか悔し泣きされたことがあった。女子力を否定されたかのようで、傷付いてしまったらしい。それ以来、その子は何度か手の込んだお菓子を作り続けてくれたが、その度に僕はその子の女子力を否定することのないような、手の込んでいない菓子を作るということを何度かしていて、その時に見出したのが、華やかでなく誰でも手軽につくれる、パウンドケーキというものだった。

 僕がケーキを焼くのは単に自分が食べたいから焼くだけのことで、どの素材を組み合わせるかなどを考えるのも、実験のような作業に似ていて面白い。さらにいえば、精神統一といっては大袈裟だが、ケーキを作る過程は瞑想に近く、出来上がったケーキを静かに食す瞬間も何らかの祈祷に近いといえるかもしれない。少なくとも腹を満たすためではないし、そういう目的から遠ざかったところにある。だから、決して誰かに食べてもらうためだけの物ではない。相手方がもぐもぐ食べる姿を見たり、十分腹が満たされたという言葉を聴くことは、要するに本意ではない。寧ろ、苛立ちに近い感情が分泌されなくもない。ただ、唯一喜ばしいのは、時間をかけて作った食べ物が、ほんの数分で跡形もなく噛み砕かれ、消化されるということである。世界でこれ以上に愉快で喜ばしいことはないのかもしれない、と個人的には思う。

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Clammbon

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 久しぶりにClammbonへ。煙突から上がる白煙、古くなった壁に並ぶ絵画、隙間なく棚に並べられたCDと白い陶器、年季が入ってくすんだ店内ーー。ここは学生時代、盛岡で初めて入った喫茶店だった。もし人生で閉店しないで欲しい店を5店ほど選べるとしたら、間違いなくそのうちの1つのカードはここに使うだろう。

 それにしても、いったい何という暑さか。盛岡は30℃を上回っていた。そんな暑さの中、ここは紛れもなくオアシスであった。いや、オアシスというより、ふと道を歩いていたら重厚な扉があらわれ、中を覗いてみると不思議な空間がひろがっていたという感覚に近い。体感的に重力の感じが違うというのだろうか、空間そのものに日常とは別の負荷がかかっている感じがするというか。登山をしていて突然トレースが細くなって、気づいたら急な斜面に消えてしまうという感じの不可解な感じに近い。

 頼むのはいつも決まってプリンとコーヒーのセット。プリンは2種類から選べるのでカスタードプリンに、珈琲は迷うことなくアイスコーヒーと即答。

 30年近くも酷使してきたという焙煎機からは常に芳しい香りが立ち上っていた。そこで焙煎された豆を丁寧にドリップし、絶妙なコーヒーにアイスピックで割った氷を入れ、至福のアイスコーヒーが作られる。その過程が目の端に映りこむ度に、「家庭で一杯のコーヒーを作る」のとは訳が違う、何か壮大な事業が行われているように錯覚してしまう。

 儀式のように丁寧な過程を経て作りだされたコーヒーが目の前に運ばれてくると、果たしてこれを呑んでよいものか、と若干躊躇する。適当に入れたものとは訳が違う。金で換えられるものでもない。すべての道具が手の届きやすい場所に配置されている。一切の無駄がない。本質が目前に呈されている。そういうことを、対面した友人と会話しながら、どこか頭の片隅で考えている。

 だが、欲望というものは恐ろしく、何かくだらない会話をしているあいだに、あっという間にコーヒーは減っていく。深煎りで苦みがあるのに飲みやすい。どんなに手間暇かけても無意識で喉を通り過ぎていく。どのくらい複雑な過程を経て生まれたものであるかを知ってか知らずか、皆のテーブルにあるすべてのコーヒーがその運命を辿るように。ブランデー色の何かの糖(友人が、「これは何ですか?」と訊き、店員さんが教えてくれたが、すっかり忘れてしまった)が付いてきたので、少なくなったコーヒーに入れてみたら、さらに濃厚な甘味が加わり、今まで味わったことのないコーヒーに変貌した。

 自家製のカスタードプリンも非常にシンプルだが、手間暇がかかっていることが窺えた。固くも柔らかくもない、ちょうどよい弾力を留めている。ところどころに気泡が見て、スプーンをさしてみて、時間を経て丁寧につくられたことが容易に分かった。甘すぎず、美味しい卵の味がする。カラメルも色も量もかけ方も、至るところに「品」のようなものを感じる。家庭で作るプリンは、絶対にこういうふうには仕上がらない。

 アテンダントの友人がСанкт-Петербургへ旅行した時に綴った手帖を見せてくれた。ほっこりするイラストで、未知の事柄ばかりが記されていて、すごく面白かった。言葉も文化も分からない異国の地に飛び込む勇気と行動力には、とにかく脱帽する。Санкт-Петербургといえば、昨日、NHKで「猫にまた旅~椎名林檎MIKIKO・西加奈子 ロシアを行く~」が放送されていたので録画したが、面白すぎて2回も見返した。とりあえず、あの「宗教」の独特のカットの仕方、ある意味で「NHKらしいなぁ……」と感じた。

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