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本を貪るのは好物のカシューナッツを食べるのに似ている

バガヴァッド・ギーター

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 暇なときに、ふと東洋思想の古典を読み進める。『リグ・ヴェーダ』『バガヴァッド・ギーター』――、仏教やヒンドゥー教の素養がないので、古典であるにもかかわらず新鮮に感じる。

 ヒンドゥー教の中心的聖典「バガヴァッド・ギータ―」。気になったのは、「行為の結果を顧みず、行為そのものに専心すべき」という思想。たとえ、戦闘で悲惨な結末が待っているとしても、戦闘すべきである。なぜなら、闘わないことは我執によるものであり、運命としての自己の行為を遂行する方が正しいとされるからである。人間は生きている以上、何等かの行為をしないわけにいかない。全ての人は、プラクリティ(根本原理、物質的原理)から生じる諸グナ(サットヴァ[純質]*1、ラジヤス[激質]*2、タマス[暗質]*3という三構成要素=不変のデーヒン(主体)を身体において束縛するもの)から逃れることはできないのだから、一切の執着を捨てて、常になすべき行為に専心し、遂行すべきである。これによって、身体上の三要素を超越し、主体(個我)は不死の状態に達することになる。

 ギーターでは、ブラフマン(ब्रह्मन् , 梵)における涅槃の境地(brahma-nirvāṇa)に達し、輪廻から解脱することがヨーガの確立であるといわれる。ブラフマンは普遍的な宇宙の根本原理であり、個人の原理であるアートマン(आत्मन् )と一致するというのがウパニシャッドの根柢である。ヨーガの境地に在ることで、万物の中に遍在するブラフマンを知覚できるようになるが、それは分節された現象に対してであって(「分割されず、しかも万物の中に分割されたかのように存在」「万物の外にあり、かつ内にあり、不動であり、かつ動き……」とあるが)、「絶対無分節」井筒俊彦『意識と本質』)の存在と異なるのでは、という疑念が生じる。

 個人的に気になるのは、そのブラフマンの遍在や絶対無分節がどのように小説で描かれてきたか、という点。作者が東洋哲学に造詣が深く、意識して描かれただろうと推測できる文学作品は幾つも思い浮かぶが、畢竟その先で神を肯定するか否か、という問題が生じる。サルトルドストエフスキーも、そういった哲学的現象について小説の題材として描いているが、特定の神を信奉することなく、実存主義を標榜したという事実こそが重要なのだと思う。

*1:汚れがなく、輝き照らし、患いのないもの。幸福との結合と知識との結合によって束縛する。→上方(天界)へ行く

*2:激情(ラーガ)を本性とし、渇愛と執着とを生じるもの。行為との結合によって主体(個我)を束縛する。→中間(人間界)へ行く

*3:無知から生じ、一切の主体を迷わすもの。怠慢、怠惰、睡眠によって束縛する。→下方(獣の世界)へ行く