Cashew books

本を貪るのは好物のカシューナッツを食べるのに似ている

年末のご挨拶

 今年ももう大晦日ですね。ブログの更新が1年以上滞ってしまい、申し訳ありません。

 ***

 今年は仕事の方も少し落ち着いてきて、前年よりは休日の時間が増えたのだが、小説を読むことも殆どせず、趣味のピアノを弾くこともあまりなかった。家庭のこと、料理のこと、検定試験漢検仏検の勉強くらいしか出来ずじまい。あとは、暇つぶしに、たまにスマホからヤフコメを投稿したりする。(今年は2度、1000いいねを超えたことがあった。政治と大学関連だった。ああいう世界は、いかにも短くウィットの効いたものが万人受けするみたいだ。)

 仏検は念願の合格を果たしたが、漢検は未だに苦戦している。隙間時間で漢検辞典や三省堂の辞典を頭から最後まで繰り返し読んでいるが、裏急後重、繍腸、筑羅などには手も足も出ない。(昔、準1級の勉強をしたときに、錦心繍腸の類は頭に入れてはいたが…)今年からは広辞苑や日国もスマホで活用しているが、横断検索機能、またはブックマーク機能の優秀さには目を瞠る。広辞苑全文検索機能を他の辞典でも出来るように改良してほしいですね)

 漢字の奥深さも勿論だが、特に外国語の深遠さに魅せられている。もし時間が有り余っていたら、とにかく外国語に浸っていたいと思う。勉強しているという感覚じゃなくて、単に遊んでいる感覚。仏語については、『新スタンダード仏和辞典』という辞典をいまだに愛用しているが、情報が古臭いといわれる辞典なので、私の脳内を渦巻いている知識もだいぶ古臭いものなのだろう。

 * * *

f:id:momokawataro:20211231141117j:plain

 (例年にくらべて全然読めなかったのですが)今年読了した面白かった本を、以下のとおり5冊挙げます。

 ①『素晴らしい低空飛行』(阿部日奈子著、書肆山田、2019年)

 ②『平家物語』(古川日出男訳、河出書房新社、2016年)

 ③『マレー素描集』(アルフィアン・サアット著、藤井光訳、書肆侃侃房、2021年)

 ④『Schoolgirl』(九段理江、「文學界」2021年12月号)

 ⑤『ジョイ・ウイリアムズ短篇集』(ジョイ・ウイリアムズ著、川澄英男訳、彩流社、1990年) *1

 ※マレー素描集は知人に貸しているため、現物がなく、写真に収められませんでした。

 * * *

 そういえば、夏あたりにプラトン『法律』を読み、以下のくだりが興味深かったので。

Again, when a man gives way to pleasures contrary to the counsel and commendation of the lawgiver, he is by no means conferring honor on his soul, but rather dishonor, by loading it with woes and remorse. Again, in the opposite case, when toils, fears, hardships and pains are commended, and a man flinches from them, instead of stoutly enduring them,—then by his flinching he confers no honor on his soul; for by all such actions he renders it dishonored. (Leges727c)

 こういう思想は神への信仰の問題から生じるのですが、何だか奇異に映るのは、今の私たちがそれほど無神論実存主義に支配されているからでしょうか。

 プラトンの思想では、生を賛美することは魂にとっての恥辱とか、ただ無為に長生きするよりも有意義で短い人生の方がいいというわけですが、特にこの法律という著作の中での発言であるからこそ興味深いです。おそらく、ドストエフスキーがメスを入れようとしたのはこういう神や霊魂の問題、そこからくる不自由さであり、アリョーシャの銃殺せよという言葉こそが唯一の突破口だったのだろうと思いました。

 それでは、皆さまにとって明くる年も美意延年となりますよう、ご祈念申し上げます。

*1:何でこんなに面白いのに廃刊のままで、文庫化されないんでしょうか…。平易な文章で、スマートに短篇としてまとまっていて、需要があると思いますが。編集者さん…

風雨同舟

f:id:momokawataro:20200126201654j:plain

 新型コロナウイルスが感染拡大しているが、岩手県だけは奇跡的に感染者が未だ確認されていない。とはいえ、県境を封鎖している訳でもないので、他県からの移動が多いこの時期に感染が拡大していくことは確実で、ほぼ避けられない、と考えるべきだろう。況や、岩手は感染者が確認されていないからサッカーの試合を行おうなどというのは言語道断であり、正気とは思えない。

 京大の山中教授も、新たにHPを作成して情報発信してくださっている。宮沢准教授もそうだが、あえて難しい用語を使わずに、分かりやすい平易な言葉遣いをしているのは高齢者や若者など幅広い年齢層に届けたいという想いからだろう。

山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信

 宮沢准教授も言っているように、「自分自身が(無症状で)今感染している」という意識を持って行動すること、この意識改革が重要である。

 

 ***

 この頃土日出勤が続いており、久々の休みだったので、部屋にこもって『失われた時を求めて』(鈴木道彦訳、集英社、1992年)を読み返した。学生時代から明治・大正期の古道具を好きで蒐集していて、椅子の座るところが古びて裂けてしまうという経験をしたことがあったが、この小説でも、肘掛け椅子に座ったら重みでめりめりと壊れてしまった、という祖母の逸話が出てきて、それに似ていたことを思い出した。ここの語りが気に入っていた。上手く説明できないものの、こういった古めかしい趣味性は、いろいろな記憶を辿っていくことで、小説を色褪せない独特のベールで包み込んでいるような感覚、通俗的な懐古趣味に陥るというのとは別の方向へ移行していく気がする。

 大学生の時に友人と寂れた遊園地へ行く機会があり、いかにも昭和の寂れた遊園地で、乗り物の手すりも錆びて朽ちかけていたが、何ともいえない哀愁や風情、独特の雰囲気みたいなものを与えられて、その時の思い出は割と忘れられないものになった。電車の電子音のメロディー、踏切の音がずっとしていたこと、その時の服装、自動販売機、携帯などの流行とどこか乖離している、そぐわないところがあったからか、記憶の変なところに滑りこんでいく感覚、不思議な雰囲気があった。

 ずっと不思議なのは、プルーストは人物を直感的に捉えるときに、一瞬にして妄想を働かせ、認識の深いところに入り込んでしまう、こういう直感力とでもいうべき才能は凄まじい。本当に同性愛者なのか、むしろ両性ではないかと思いたくもなる。プルーストがしているのは「人間観察」とかいうものではなくて、つまり「観察」などはなからしておらず、非常に直感的であるように思う。

理解する・認識するとは

 年度末であわただしく、てんてこ舞い状態。日曜の夜、『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』の映画を観た。夜にもかかわらず、年配の方々や、若い女性などの姿が多く見られたのが意外だった。(東出某がナレーションしてる影響?)

 批判めいたことは書きたくないが、ドキュメンタリー映画として放映するほどの内容に感じられなかった。伝説、とは誇大広告もいいところで、テレビの教養枠で一度流せば良い程度ではないだろうか。討論会後に興味深かったという旨の発言を三島はしたそうだが、それ以上でも以下でもなく、内容も観念的な議論の応酬に終始していただけで特に建設的なシーンは見当たらなかった。小説のレシやロマン、サルトルのイマージュのくだりなども、結局本気で互いの思想を突き詰めるということはなく、ゆるい雰囲気でどこか脱力していて、ポーズとしての議論に過ぎなかったようにおもう。

 ただ、芥氏が「言葉が力を持った時代の最後」と言ったことが、三島の「言霊」論への応答とも感じられて、互いの主張は折り合うことはないにせよ、未だに屈折したままのかたちであれ紛うことなく(言葉の力によって)そこに存在している、という印象を受けた。

(さきに批判したのは、その言葉に対して映像の側から肉薄する事態はなんら起こらなかったように感じた、ということ。それに加えて、ドキュメンタリー化することが三島にとっての一回性に賭す潔さから遠ざかってしまうという皮肉。)

 

***

 

 コロナの蔓延、嘘の情報に翻弄される人々……情報の正しさやメディア・リテラシーが問題になるが、というよりもそれ以前に「物事を理解する」ということはどういうことなのか、と問いたい。簡単に「理解する」というが、何かを理解し認識しようとする時点で、例外なく逆説的に理解しえない・認識しえないという事実が含まれる。たとえば、マウスの底、パソコンの裏側が見えないのにマウスやパソコンを想像することは、見えない部分のすべてを見ないということであり、見えないことによって見るということを了承することでもある。その事実は、理解しえた・認識しえたという思い込みとともに現前化する。コロナウイルスの顕微鏡写真にしても、実際に調査した人間にとっては事実かもしれないが、我々にとっては少なくとも事実とはならず、その翳にすぎない。錯覚を事実として捉える装置であるメディアを媒介にして、純粋な事実ではない事実を押し付けられている。そうして我々が情報として事実ではない事実を押し付けられて知ることの中には、実際に顕微鏡で見た研究員の恐怖や焦燥などは存在しない。

 ウイルスは不意にやってくるのではなく、周到な計画を経て人の身体に住み着くものだとしても、もはや感染源の特定すら難航している。ついさっきまで健康だった身体が、数時間後にコロナウイルスの病原菌に侵される、という事態が突然起こったように見える。実際には突然ということはありえないが、そのように見てしまう。「さっきまで健康だった」ということは事実なのかどうか怪しくなり、そもそも健康とはどういうことか、となる。そもそも、感染源を特定して情報を得ることに何のメリットがあるのかという気がしないでもないが、人間の理解・認識の在り方が問い直されるべきではないのか、と思った。

 それに伴って、人混みなどの密を避けるように政府はいうが、自己が他者との係わりを絶って希薄化するとどうなるのか。他者という存在を思い浮かべることができなくなり、自己にとっての言葉が氾濫するが、からっぽの言葉だけを反芻して空回りするだけで虚しくなるのではないだろうか。言霊信仰とは、いわば砂を噛むように虚しくなる、死にたくなることを受け容れることでもあるのではないか。三島は相当の覚悟で以て自決したが、言霊信仰の両面性というものがあったような気が私にはしてならない。

 コロナウイルスにおける認識の在り方を問うということは結局、言葉の在り方を問うことにも似ている。言葉の多くは死滅して、というよりも言葉の観念自体が社会において死滅してしまったがために、読書という行為によって形骸化した死語を掘り起こすという暴挙に出てみたりもするが、ものと言葉を繋ぎとめる観念がいかにして死滅したかの淵源を辿っていくことなどできない。言葉を探究しようとすることは美しいかもしれないが、言葉はすべて自己のものではなく、他の人のお下がりという虚しい事実に突き当たる。事物側からの叛乱により、遠ざけられた位置に瀕しているということ、言霊は希求すればするほど遠ざかっていくものでもある、というジレンマをおそらく三島は分かっていただろうし、彼が懊悩したのは思想的なものではなく、言葉の力の衰退だったのかもしれない。

漢検1級(R1-3)の感想

 恒例であるが、今年度3回目の漢検1級を受験してきた。自己採点の結果142/200点であり、合格ボーダーの8割には届かなかった。この7割から8割のあいだの壁が非常に高く感じる。難化傾向にあるといわれる試験で7割取れたことに多少手応えは感じているが*1、今後難易度が更に増すのであれば、永遠に受からないのではとすら思う。

 ケアレスミスの例としては、紛紜の紜を書き違えたり、前にも出題された汨没を(「こつぼつ」と知っていたにも関わらず)「べきぼつ」とうっかり誤答したり、対類では妹背のところに菁莪を、育英に伉儷をあててしまった。(伉儷は伴侶の意と知っていたが、妹背の意味が分からずに混乱してしまった。)

 仏教語については、「盧釈那/盧舎那」「読誦」「還俗―復飾」など丁度山を張っていたところで、予想通り正答できた。*2だが、「(えこう)返照」については、「回光」ではなく「回向」と答えてしまった。仏教語の回向(廻向、追善供養のこと)にとらわれてしまっていた。帰りの書店で、『仏教語大辞典』『文藝春秋(2020.3)』芥川賞受賞作を読むため*3『新潮』(古川氏の「曼陀羅華X2004」めあて)を爆買いした。『仏教語大辞典』なる代物が面白すぎて時間さえあれば何時間でも眺めていられる、常に目から鱗状態。

  余談だが、四字熟語で1級配当外のもの(敗柳残花、流連荒亡、回光返照)や、故事・ことわざの「高岡」「未萌」などをみると、画数が少なくいっけんスマートに見えるが、何ともいえない奥深さを感じる。漢字を勉強すると、難解な漢字ばかりに関心が向きがちだが、こういうスマートで明快な漢字の美しさ、奥深さに気付くことが大事だと再認識させられた。学生の頃、バッハの平均律を弾いていて、余計な枝葉を削ぎ落して木の幹だけが在るようなシンプルな演奏をしたいと思ったことがあったが、漢字の世界にもそういう感覚に似たものがあるのかもしれない。

*1:個人的には、文章題の「歯をカンす」の「鉗」を書けたことに驚く。なぜか奇跡的にぱっと思い浮かんだ。日頃小説を読んでいたせいだろうか。鉗と釧をセットで覚えていた。

*2:たとえば、盧釈那の他は矜羯羅・阿耨観音軍荼利明王・悉達多・那輸陀羅・提婆達多、読誦の他は読経・看経・諷誦・諷経・誦経などを押さえていた。

*3:とりあえず、『最高の任務』と『音に聞く』は近所の図書館にあったので読んだ。他の候補作も読みたいけれど読めていないという状況。

『人間椅子/押絵と旅する男』(新潮CD)

f:id:momokawataro:20200119114917j:plain

 新潮社から2001年に発売されたCD。佐野史郎の朗読が何ともいえず、湿った静かなトーンの粘り気のある朗読で、独特の変態性や不気味さを感じさせる。「押絵ー」の方で、たとえば、老眼鏡を逆さに覗いた時の「いけません、いけません」という老人の台詞や、怪しく大笑いするところなど、大袈裟に感情表現している。そもそも、佐野史郎の声そのものに、捉えどころのない深みを感じる。素晴らしい朗読。ちなみに、音楽は野田昌宏、演出は天願大介(どちらも某動画サイトにもアップされているので、気になる方はそちらでどうぞ)

 日清戦争のさなか、十二階(凌雲閣)の一方の壁にずらっと戦争の仰々しい油絵が掛けてあったというくだり。内容も残酷でおどろおどろしいもので、戦争の広告が支配的だったことが窺える。たとえば、「剣つき鉄砲に脇腹をえぐられ、ふき出す血のりを両手で押さえて、顔や唇を紫色にしてもがいている支那兵」という油絵に対する表現が出てくる。だが、老人の兄が「横浜の支那人町の、変てこな道具屋の店先で、めっけて来た」「外国船の船長の持ち物」だった遠眼鏡というこの言い回しにおいて、(むろん双眼鏡の登場は戦争と無縁ではないにせよ)「戦争」という対象を誘発しないように巧みに回避しているという印象を持つのは私だけだろうか。

 それと、「時代と切り離された奇想」という評があり、え? と思ったので言いたいのだが、たとえば、明治23年浅草六区に日本パノラマ館という、目の錯視を利用してステレオ写真をパノラマのように見せる空間装置が誕生しており(ドイツにはKaiserpanoramaという装置があった)、その後は同じ跡地にルナパークという娯楽場が出来て、客車に腰掛けるとスクリーンに活動写真が映り座席も揺れるという「汽車活動」というものがあった。こういう娯楽装置や輸入品(舶来品)から着想を得ている点で、いうまでもなく時代を色濃く反映しているとは思う。

 ちなみに昨年十二階の跡地を訪れたら、こんなふうになっていた。

f:id:momokawataro:20181124121346j:plain

 

ポメラ遊び

 数年前からポメラで短い小説のようなものを書き溜めている。どこにもないようなものを書いている。(散文、とすらいわないのかもしれない。前衛、すらもとおりこしてこれは何だろうかという)何か応募するとかいう目的もなく淡々と、、、もうだいぶ前、高校生の時に応募したのが最後だった。クンデラトゥルニエをよめば刺激を受け、ロメールの映画をみると触発されたりもする。ただのフランスかぶれ。(そういうフランスかぶれの人たちは比較的苦手だったのに、自分がそうなっていることに気付く)

 サルトルの影響だろうか、事物と人間との相関について考えてばかりいる。こうしてポメラを触ったり、Suicaで電車に乗ったり、カードで買い物をする。尋常じゃない数でものと触れ合っている。こういう尋常じゃない数の触れ合いが、何の障害もなく行われている。何の障害もなければ、何の発展もない。知識の体系に収まっているからである。

 たとえば改札にしても信号にしても、移動という目的のツールにすぎず、それがある一定の幅や高さを有する存在とは捉えられない。効率性の名の下に、ある決まったかたちでしか<もの>を見ないように訓練されてきたからだ。むろん安定しているかたちでは、かたちの揺らぎは起こり得ない。<もの>が揺らぐことなんかどうでもいいと思っている、<もの>が自分の側へ叛乱をもたらすことが怖いのだろうか。<世界>の側から相対的に人間が竹箆返しをくらったとき、われわれはどうなるのかという率直な疑問。「家具つき人間」ベンヤミンの本に出てきた言葉)に成り下がるのだろうか。

 昨今小説を読んでも面白く思えないのは、事物を対象のレベルから意識のレベルへと移行させたとしても、事物ではなく人間の言葉でしかないからである。結局、一人称としての私の意識の延長にすぎないのだ、という諦念。<もの>のかたちは、人間の意識の流れとは関係のないところで不意に出現してくるのではないだろうか。外部としての全き他者というか、エイリアンとして出現してくるものではないか。

 人間をとことん物質のように描くにはどうしたらよいか、事物を人間らしく意識化するにはどうしたらよいか、ということが目下のテーマである。要は、人間を追放したいのかもしれない。かんがえてみると、、、「私」が主語の小説なんか一度も書いたことがないなぁ、と嘆息する。世の中にあふれているのは、殆どが「私」を主体としたものばかりだ。「私」はたとえば、機械や電柱ではいけないんだろうか。事物の囲む中心には、常に人間が存在していなければいけないんだろうか。

谷川直子『おしかくさま』

f:id:momokawataro:20190501101855j:plain

 あけましておめでとうございます。皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。本年もよろしくお願いいたします。

 ***

 年末いろいろ本を読んだが、サルトルプルーストなどフランスの文学を再読したくなって、部屋で大人しく読んでいた。(あとはロメールの映画ばかりみていた)サルトル嘔吐をよむと、存在論的地平が言語論的地平がどうこうというよりも、景がぼんやりと曇っていき、意識がふらついて渾然一体となる過程が描かれる、このファジーな地平は一体何なのだろうかと昔から思っていたが、結局は<ひと>と<もの>との相関の揺らぎに他ならない、と考える。いわばここで生じている事象というのは存在の根源への懐疑であり、空間的・時間的近似性の中を生きている現代人の多くが馴染みがないのは当然なのかもしれない。しかも、ところどころに悪魔とか汎神論、ナーラーヤナ「ヒトーパデーシャ」への言及などがあるが、西欧の文学作品に注ぎ込まれてきた神話のrécitに批判的に訴えかけようという狙いのようなものも感じる。

 それと、2012年に文藝賞を受賞した、谷川直子著『おしかくさま』も読了。「おしかくさま」というATMに現れるお金の神さまと、その新興宗教を信じるどこか未熟な人びとの話である。どこか、と書いたのは、40代後半になって両親をパパママと呼ぶとか、思索が表層的で深みがないとかいうことであるが、とはいえ今の世の中にもこういう方は実際存在するし、いくら義援金に寄付したかとか、パチンコでいくら勝ったかを気にして金の亡者になってしまうのも、生活に追われればありがちなことである。むしろ、ここに登場する人物は偉いところがある、少額であったとしても震災の義援金に寄付をしているとか、募金をしている若い男が募金箱から珈琲代をくすねたのを見た時に同じ額を自ら募金したりとか、自身に対して嘘を付かなかったり、気遣いや思いやりを感じられるので好感がもてる。

 結局は、この小説に登場する作中人物のことが好きなのだ。もし近くにいたら、かなり親しくなれる気がする。そんな未熟でありながらも優しい人たちが、詐欺まがいの新興宗教に半信半疑でありつつも、少しずつ足を踏み入れていく様子は、怖くもあり面白くもあった。言葉や会話にもユーモアがあって、エンターテインメントの要素が強いから面白く読み進められた。だが、それ以上の奥深さはなかった。たとえばサルトルを読んだ後だと前菜のようであり、エスプレッソに対してアメリカンのようでもあり、あっさりと楽しく読み終わった。

 細かいところだが、言葉が多用されることで浅薄になっているところも感じた。たとえば、作中何度か「AKB」が出てくるが、現代性の象徴でありそれが結末に繋がるというのは分かるが、であれば尚更、最後の美少女を形容するときの「AKBのような」はいただけない。そこで想像の翼が圧し折られる気分だし、その形容がなくても最後のオチは正常に機能すると思われるので。

続きを読む