Cashew books

本を貪るのは好物のカシューナッツを食べるのに似ている

樋口毅宏『民宿雪国』

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 何でもいいのでできるだけブログを更新したいと考えているものの、それなりに多忙で趣味に没頭できる時間もなく、話題に乏しいのが現実である。

 昨日も一日仕事していたが、殊に日曜日の今日は忙しかった。早朝からいろいろイベントがあって出勤しなければならず、バナナと野菜ジュースで乗り切る。午後は大学の年次総会などに呼んでいただいているので出席。懇親会にも出るが、夕方から重要な部会が控えているため、前菜と魚料理(上掲の写真)を食べたところで、申し訳ないが途中退席させていただく。(メインディッシュすらも食べれず……)結局、電車に乗りながらソイジョイ(ピーナツ味)を食べ、部会の準備へと向かった。

 部会が終了するのはたいてい夜で、それから何かを食べようと思っても、胃が塞がっていて何も食べる気にはなれない。こういうふうに夜遅く仕事が終わる時は、いつも決まってLawsonのグリーンスムージーのドリンクを購入している。これなら飲んでいいや、と思えるし、ストレスなくすーっと飲めるので、いつも助かっている。栄養や健康を考えているわけではなくて、単に飲みやすいから飲んでいるだけなのだけれど。

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 通勤時間のあいだに、樋口毅宏民宿雪国祥伝社を読んだ。ストーリーもナンセンスで、文体も構成も凡庸だったが、「暴力」「狂気」といった要素の渦巻くエネルギーには感服した。

 文体については、ありふれた言葉しか用いていないせいか、文体の「顔」が曖昧で判然とせず、特定できない。文体に対する美意識のレベルが低く、記憶に留める要素が「暴力」と「方言」だけになってしまっている事態に危うさを感じた。また、構成については、後半の伝記が無意味で、前半のエピソードと有機的に繋がっていないと思われた。在日の設定にしても作為的だし、第3章で「H・Y」(某実業家を連想させる人物)「C・M」(某カルト団体教祖を連想させる人物)といった人物が登場するが、最後までこれらのフェイクが登場する理由は見当たらない。

 ただ、第1章というものだけに絞ってみれば、非常に面白い読み物である。(個人的には、変に伝記という設定がなくても、この第1章を長篇まで拡張した読み物が読みたかった。)ここまで、著者が「暴力性」という要素を全面的に信仰し、その絶対的なエネルギーの怒涛のもとに、殺人も陵辱もセクシャリティも何もかも描き切ってしまおうという、余りに野蛮すぎる意図に驚くしかない。もとより、私はその発想を何ら否定しないし、寧ろひとつの意図として尊重することを択びたい。

 「男の散り際を見せてみいや」という台詞一つにしても、作中のさまざまな恣意的な言葉のコノテーションがエネルギーの渦となって押し寄せ、その台詞の妥当性をいっそう増している。著者はコノテーションの扱いに長けているかもしれないが、コノテーションを利用している/されている段階にすぎず、このコノテーションそのものを破壊し、新たな意味を建設する段階には到っていないように見受けられる。したがって、どうしても作中で描かれる暴力や狂気が思い付きの域を出ないように見えてしまい、言葉に慄えることができない。私としては、新たな「暴力」「狂気」の描写によって慄えたいだけではなく、新たな言語が製造され、発明された瞬間に立ち会わないとどうしても面白くない。

月の輪@紫波

 

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 肌寒くなってきたのに、なぜか季節外れのジェラートを食べることに。酒粕×クリームチーズが半々ずつ、しかも伝統ある酒造が作った商品とあってかなり濃厚。残念ながら、寒すぎたのもあって最後まで食べきることができなかった。

 おもえば、今夏は全くアイス食べなかったので、アイス自体食べたのが1年半ぶりくらいかもしれない。

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 『反劇的人間』という本でドナルド・キーン安部公房が対談しているが、「美しい日本語とは何か」(第4章「文学の普遍性」)について議論しているくだりがある。

 ドナルド・キーンは言語表現としての正確さを追求すると中性的になる恐れがあると危惧するのにたいして、安部公房は自然科学的な正確さの追求ではなく、固有性にとっての正確さ、感覚的な正確さの追求が重要なのだから、必ずしも中性的ということではないという。(日本語の乱れ、日本語の美しさを過度に主張する人々の書くものが全く良いと思えないという安部の批判は、模範的・教科書的な書き方が自然科学的な正確さでしかなく、中性的な軸に偏ってしまうこと、必然的にアポリアに陥ってしまうことへの無自覚さへの批判でもあるかもしれない。)

 たとえば、ガラスのコップは二度と同じように光らないので、大衆作家のように「ガラスのコップがキラッと光った」などと書くべきではない。「非常に美しく光った」などと書くと、言語それ自体が前へ出すぎるので中性的で駄目になってしまい、「美しい」という主観の内容を詳述すればよいかといえば、それも総体的すぎて駄目になってしまう。それでは、固有性、一回性の美しさをどう表現すべきなのか。

 安部の理論を敷衍すれば、「その書き手にしかできない、オリジナリティのある、ただひとつの言語表現を探すしかない」ということになる。これは普遍的な言語表現の追求なのだから、越境性があるというか、日本語であっても英語であっても変わりないことであって、日本語という特殊性の制約を過度に気にする必要もない。たとえば、ピアニストがピアノという楽器に熟練していて、このくらい指と鍵盤の距離があってこのくらいの速度で弾けばこういう音が響く、と弾く前から感覚的に分かり、かつそれを確実に実現できるように、書き手も日本語というものを知悉し、熟練していなければならない。

 それから興味深かったのは、オーバーな身振りで指を誇張させるタイプのピアニストよりも、切手か何かを細々と分類するような恰好で、静かに無感情にピアノを奏でるピアニストのほうが好きだと安部が話していること。物を書くときにも、分かりやすい言葉で、できるだけ漢字を少なくして、言葉の色合いなどを常に抑制しながら、複雑な言葉との調整を無意識で行うという。私も幼い頃からピアノに慣れ親しんできたけれど、音色だけではなく音のかたちや輪郭といったもの、前後への影響であるとか、どういうふうな破綻をもたらすかということも含めて無意識で考えていて、それが少しでも意識に上ってくると演奏は成り立たなくなってしまうというジレンマがあったので、安部公房の発言がしっくりきたのだった。

Backstube Zopf@松戸

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 ハード系のパンとの出逢いは、小学生の頃だった。東京の親戚が買ってきたバゲットをトーストしてバターを塗って食べたところ、余りの美味しさに衝撃を受けた。やや焦げめのクラスト、もっちりしっとりとして弾力のあるクラム、鼻から抜けるバターの芳醇な香り……。レーズンやクランベリーなどがふんだんに入ったバゲットで、噛むたびに滋味深い小麦の美味しさに気づかされ、それからしばらくパンばかり食べ続けた。

 Zopfのパン・オ・フリュイを食べて、その記憶が蘇ってきた。ブルーベリー、クランベリー、胡桃などが余すところなく隅々までたっぷりと詰め込まれているバゲット。残念ながら幼少期に食べたバゲットの店はもう存在しないが、パン・オ・フリュイの食感といい形といい、幼い頃の記憶にあるバゲットと、驚くほど何もかもが酷似している。まるで、初恋の相手に数十年ぶりに再会したかのようであった。

 バゲットを少し厚めに切り、クラストが焦げてカリカリになるまでトーストする。オーブンから甘い香りが漂ってくるので、早速熱々のところをとりだし、昔から愛用しているカルピスバター(有塩タイプ)を表面に薄く塗りたくる。個人的に無塩ではなく有塩タイプが好みで、フルーツとクラムの甘さとバターのしょっぱさが絶妙に合い、何ともいえないハーモニーを奏ではじめる。ほかにも、職場の同僚から頂いた大西ファームのバーニャカウダーを塗ってみたが、にんにくのピリッとした辛さと香りが甘さを引き立てていた。柚子胡椒オイルはよくやるので、バーニャカウダーも是非レパートリーに加えたい。

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 Zopfのパンで個人的に最も好きなのは、ゲズンドという雑穀パン。(江古田パーラーのくるみパンに似ている。)小麦粉、ライ麦粉、はと麦、発芽玄米、マルチシリアル、きび糖、天日塩、パン酵母などの豊富な原材料が使われており、栄養素的にも抜群。とうもろこし、ヒマワリ、燕麦、アマニ、グリッツやゴマなどの栄養価の高い穀類がふんだんに散りばめられていて、独特の穀物(とくにライ麦粒)の甘さと滋味深さをつくりだし、いろんな味や食感を生み出している。噛めば噛むほど、口の中でいろんな味がして、穀物同士が化学反応をうみだし、小宇宙を形成している。たとえば、低糖質ダイエットでお馴染みのLawsonのブランパン(ふすまパン)が数年前から流行っているが、栄養素的にもダイエット的にも、このゲズンドに勝るパンって存在しないんではないかな、と思う。

 おすすめの食べ方は、ゲズンドにレタスやトマトなどの野菜とマリボーやサムソーなどのチーズを挟み、その上に炒めたベーコンを乗せる、というもの。先週は、薄く切ってクラストをこんがりと焼き、マリボーとレタスとハムを挟んで食べた。ふわっと柔らかいクラムの食感が美味だった。ほかにも、ゴルゴンゾーラドルチェという青カビタイプの柔らかいチーズを塗って焼いてみたら、ブルーチーズ特有の癖もなく風味も穏やかで、非常に美味しかった。フロマージュフレやブリヤサヴァランフレなども試してみたい。どんなチーズを入れても違和感がなく、雑穀の滋味深さがより増すように思えるあたり、ゲズンドというパンの凄いところかもしれない。

中勘助『蜜蜂・余生』

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 休日にビアガーデンで頼んだ、白身魚フライ付きのカレー。カレーと白身魚のフライの組み合わせは初。

 白身魚にスプーンを入れると衣はサクッとして、身はふっくらとして柔らかく、ほんのりと甘味も感じる。肉よりも上品で、海の香りも広がるので、個人的に肉より魚のほうが好きかもしれない。カレーは思ったよりスパイシーで液状感が強く、スープカレー感覚でさらっと食べられる。できれば、夏の暑い日に食べたかった。

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 中勘助「蜜蜂」(『蜜蜂・余生』)を軽い気持ちで読み進めたが、途中から胸が詰まる思い。ことに、日記の終盤に差し掛かると、一つひとつの鋭い箴言が多層的な記憶のレイヤーに重なって美しく響き合い、姉を亡くした悲哀といったものが痛いほど伝わってくる。

 解説で生島遼一が書いているように、勘助が≪我執≫のつよい性格だったというのは同意見である。兄についての回想で、「広い意味でのひとの好意を渇するごとくに望みながら自分が真にひとを愛することができないゆえにひとの好意をもまた素直にうけいれることができず、あのような状態になってさえも終に我をすててひとに頼り、ひとの親切にすがることをし得ずに一生自分の因果な性質に苦しめられとおして――この点母も全く同じだった」(141)とあるが、これは兄や母に対するばかりでなく、作家としての勘助自身にも同様に当てはまるのではないかと思われる。

 その人並み外れた我執の激しさからうみだされたのが、9月3日の詩だろう。衒いのない素朴な詩であるがゆえに、他の日記の詩と較べていっそう悲しく、切実に訴えかける詩となっている。さらに、その後の9月7日で示されるエピソード、この些細な内容が激しく胸を打つ。

 ある日、私が茶の間で食事をすませてからいつものとおり病室へいって枕もとに坐ったときにいくらか恨みがましく この頃はなかなかきてくれなくなった といった。そういわれて私もはっと気がつき、姉は湯たんぽをいれて床のなかにいるのだからわかるまいが火の気のない病室の冷たさが痩せた自分にこたえるので、暖い茶の間に坐ってる時間が知らずしらず長くなったのだと謝罪的に弁明した。姉は「あーそうか」と胸にこたえたらしく、また自分で自分に納得したらしくいったが、その後は何につけてもひと言も不満をいわず、用事も出来るだけ頼まず、あっちへいっててもいい とまでいった。(139)

 素朴なエピソードのようでありながら、姉の悲しみといったものを見事に書き表している。病的なまでに研ぎ澄まされた神経からしか達成できない見地と思われるし、どういう気持ちでこの日記を綴ったかと問いたくもなる。研ぎ澄まされた言葉も、病的であることも、すべてが「姉の悲しみ」という核心に回収され、収斂していく。

 この悲しみといったものは、何によって生み出されているのか。言葉の美しさに由来しているだろうけれども、単に言葉からだけではないことは明らかである。

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薩摩芋餅、立食いそば

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 職場の近くに、若い女性が切盛りしている小さなカフェがある。珈琲などの飲み物やロコモコなどのランチだけでなく、なぜかお餅や雑煮にも力を入れている。

 新メニューに薩摩芋のお餅というのがあったので、試しに注文してみる。驚いたのは、たれがしょうゆ味のそれではなく、薩摩芋のペーストだったこと。どろっとして濃厚だがそれほど変に甘くなく、素材の甘さが引き立つ程度に抑えられている。案外、薩摩芋の風味が餅と合っていて、不思議な感覚だった。

 久々の餅の威力たるや凄まじく、ボリューミーで腹持ちがよい。おかげで晩飯抜きとなった。

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 そういえば、前に所属していた部署の上司は、自称「立食いそばマニア」だった。

 会議や仕事が終わると、よく駅の立食いそばへ誘われた。うどん嫌いで、そば専門の人だった。熱々のそばが差し出されると、素早く麺を啜り、あっという間につゆまで平らげてしまうのだった。その時点で、私はまだ半分も食べ終えていなかった。まるで食事の迅速性を競っているかのようだった。

 一緒にそばを食べている時、「あまりにホットドッグ的な」という倉橋のエッセイが頭をよぎるのだった。ホットドッグがアメリカにおける単一性(unity)の象徴であり、アンチ・ダイバーシティであるとするならば、立食いそば・うどんの類も同様というのである。味や旨さの実感ということの優先順位が低く、単に空腹を満たすこと、機械的に喉から胃へ押し流すことが目的なのであって、偏執狂の一種とみることもできる。

 逆に、牛鍋の旨さに恍惚となりながら、娘が差し伸べる箸すらも無視し、食に集中する男の姿を描いたのが鷗外。まるでこの男は、牛鍋の旨さを実感することに対して全神経を費やし、全ての時間を捧げているようである。(同じく、鷗外も圧倒的で的確な描写と無駄のない論理展開によって、その一幕を描き出している。)独逸流の衛生学かぶれの鷗外は何でもかんでも火を通したがる癖があったという、森茉莉『貧乏サヴァラン』の逸話をどうしても想起せざるを得ないが、この芸術至上主義的態度についても、ホットドッグの事例と同様、偏執狂の一種といえるかもしれない。

 ある日、大学教授との打ち合わせが終わった頃、よろしければ立食いそばに行きませんか、と突然上司が訊ねた。教授は若干戸惑った様子で、しばらく立食いとは縁がないですねえと遠回しに話していたが、上司は全く意に介さずといったふうだった。また、教授は、大学傍の料亭の鴨南蛮が好きだとあえて仰っておられたが、上司はさしたる興味も示さず、その場の相槌で軽く受け流していた。まだ部下も連れていってあげたことのない穴場の駅の立食いですので、期待してください、などと自慢気に話していた。

 結局、その駅で出されたそばは、他の駅の立食いそばと全く同じもので、何の違いもなかった。むしろ、麺の食感が少し不満だったので、個人的には別の駅の立食いそばのほうが好みだった。この駅の立食いが穴場というのは嘘だったのではないかと勘繰りもしたが、食後に上司が満足気な表情を浮かべていたのを見て、ここが穴場というのはあながち嘘ではなく本当なんだな、と思った。穴場の理由は、さっぱり分からないけれど。

河久弥恵子『コンクリートと高さと人達』

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 9月末ですが、残暑ですね。1か月前に逆戻りしたかのようです。喫茶店のテラスの噴水が涼しげだったので、撮ってみました。

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 最近読んだ本のなかで感銘を受けたのが、河久弥恵子『コンクリートと高さと人達』深夜叢書社、1973年)。四十余年も前とは思えないほど、実験的な傑作だった。

 世界が相対として私たちとの関係を拒否したらどうなるか、というテーマに真正面から向かい合っている。人間と事物の相関、人間と世界の相関に根本的な疑義が生じ、苦悩し懊悩するさまが描かれている。たとえば、ロカンタンの嘔吐のレベルなどとは異なり、盗みという行為を経て、刃物で危害を加えるという地点へと到る。

(……)彼はぼくをみた。ぼくだけを見た。二人は向き合って立ち止まった。ぼくと彼だけの関係。ぼく達との間には、一つの関係が出来上がっていた。彼はその意味を知ってはいなかった。ぼくはバッグに彼の手の体温を感じとったとき、体温はそこにこびりついていた。ぼくの手の中で、それは拡がり出していた。ぼくはみぶるいした。(13)

(……)ぼくは不安になった。始まってしまっている、二人の関係が進んでいたからだ。ぼくの前で、彼は怖れ出した。ぼくがいる、ぼくが、ある、この意味がわかったからだ。ぼくにも、彼のある、意味がわかっていた。地下道はなめらかな通路で、何にもない通路で、バッグをもった男に恐怖があった。ぼくも恐かった。ぼくはナイフを出した。ぼくはナイフでさした。男の恐怖に従ったのだ。(20) 

 ここで描かれる人間の意識は、世界との均衡を失い、あらゆる事物から遮断されているようにみえる。(上記の「バッグ」というのは、「バッグ」としてのバッグではなく、「エイリアン」としてのバッグといえるかもしれない。つまり、知識の体系から外れているということである。)しかし、同時に、他者との無関係性を突き詰め、「社会性」(という、いかにも世間が好みそうな)概念を完全に失ったとしても、人間存在が事物と何らかの関係を継続せねばならないことが描かれている。意識のベクトルは意味の把握ではなく、世界の構造変化の察知へと向けられる。 

 それはまるで、1cmの対角線が√2 の無理数にもかかわらず一定のディメンションの中に見事に収まるという、ユークリッドの事象を想起させる。別の方向へと移行するわけではないという、まさにそのことによって、存在論、認識論の枠組みが崩れていく。それと同じように、事物との相関から逸脱した人間存在の一形式の表象によって、むしろ群衆は事物と密接に係っているようでありながら馴致しているだけの存在にすぎないこと、また、事物との相関を失うことによって、新たな事物との係わり、事物との意味の発見が可能であることを提示しているように思う。

 現代でも、Suicaなどのプリペイド電子マネーによってさまざまな数の接触をこなしているが、その異常性であるとか、その接触が遮断されたらどうなるかということを考える機会は少ない。あるいは、3Dという表現が発達しているが、虚像と実像との完全な差異や溝といったものを考えることもまた少ない。「把捉する」とか「把握する」という言葉は、当然ながらすべて「つかむ」という行為に由来している。ふれるということは、認識の最終局面なのだ。もし、触覚が危うくなり、対象をつかむことができないならば、人間は蹲ることしかできなくなるだろう。

 視覚・触覚優勢の現代において、みること、ふれることの問題、あるいは人間と世界との相関について考える上で、改めて再読に値する一冊といえるかもしれない。

飛島のいか塩辛

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 塩辛い、というのが飛島の塩辛を初めて食した時の第一印象。あまりの塩辛さに、酸味のある梅干を食べた時のように口が窄んでしまった。何だこれは、世の中にこんなに塩辛い食べ物が存在するのか、という驚きで呆然とし、箸が進まなかった。

 ある日、絹ごし豆腐を食べていて、醤油の代わりに塩辛の魚醤を数滴垂らしてみた。濃厚な魚醤の旨味がまろやかな豆腐と合い、とても美味しかった。通常の豆腐より若干濃厚で、クリームチーズのような食感の豆腐だったので、魚醤のコクと上手く合ったのかもしれない。ほかにも、野菜炒めの調味料としても抜群で、火を通すことによって魚醤特有の生臭さが消え、芳醇な香りがひろがる。

 気付いた頃には、すっかり飛島の塩辛の虜となっていた。飛び上がるくらいに塩分が高く不健康だと思いながらも、どうしてもこの一切れが止められない。頭で制御しようと思っても、塩辛い痺れを求めて、手が勝手に動いてしまう。まるで塩の塊であるかのように塩辛くて堪らない、こういう食品から濃厚な旨味の世界が展開していくことが不思議でならなかった。

 飛島の塩辛は、一般的な調理法とは異なる。一般的な塩辛のようにイカを刻んで肝と和えるのではなく、まず肝を塩漬け・醗酵させて魚醤を作り、そこに塩漬けにしたイカ(塩抜きしたもの)を浸け込むのである。イカの身ではなく内臓を醗酵させて抽出する魚醤といえば、能登半島で作られる「いかいしり」(いしりとは、魚汁(いしる)の訛った呼び方といわれる)がよく知られているが、そこまで強烈な内臓系の旨味を感じるわけではない。

 身にしても汁にしても、一杯のイカを余すところなく調理し尽すことによって生まれる。そのイカが塩漬けにされて旨味が熟成するタイミングと、肝を醗酵させ魚醤が出来る過程、一連の製造工程において全く無駄がないのである。無駄を排すということが調理の真髄ではなかっただろうか。さらに、一般的に市販されている瓶ビールを再利用して販売されるというところも、ユーモアに溢れている。

 信じられないことだが、イカを調理する際、内臓はごみへ捨ててしまう主婦も多いと聞く。たとえば、イカの刺身を作る上で、新鮮な身以外は何もかも不必要なのだ。イカだけでなく、他の魚あるいは肉も同じことで、重要なのは身であり、それ以外の部分は「食べる」という行為から切り離されている。だいたい、魚屋には刺身用の身が陳列され、肉屋には差障りのない部位のみが並び、それを買ってきて、「火で焼く」という最も単純かつ原始的な調理法を未だに繰り返している人間の在りようというものに想いを馳せると、時間の推移とともに進化どころか退化しているのではないかとすら思えてくる。

 それに、瓶ビールを再利用するところも、何でも斬新なパッケージで商品化してしまう現代の風潮と逆行していて面白い。そもそもパッケージなど単に人を引き寄せるための手段でしかないのだから、外観ではなく商品の中身に投資すべきなのだ。瓶ビールという前近代的な発想には、「商品開発」という一連のプロセスが必然的に陥ってしまうようないかなる卑俗さもない。孤島に流れる時間がゆるやかであるように、資本主義的な人間のこすからさとは無縁でありつづける。

 現在、だし醤油というしょうゆ加工品が席巻しているが、一方で醤油の消費量は年々低下しているという。大豆で出来る醤油の大量生産により魚醤が駆逐された、それと同じ道を辿るのだろうかと思えてならない。そもそも、魚醤と醤油は動物性か植物性かの違いはあれども、だし醤油というものは醤油に似せて作られた奇怪なものでしかない。それに、旨味調味料であるたんぱく加水分解物がクロロプロパノール類(3-MCPDという発がん性のある物質を生成すると従来からいわれてきたのだから、愈々、利便性が食の安全を脅かす事態になっていることも頭の片隅に置いたほうがよさそうである。