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万有回

主に趣味の読書について綴っていければと思います。「昭和の残り滓」といわれる世代。

加計学園獣医学部新設問題についての前川前文科次官による会見(全文文字起こし)

[弁護士]

 ここに来て皆様にお話をする経緯、その気持ちを最初にお話させていただきたいと思います。

[前川前事務次官]

 文部科学省の前事務次官の前川喜平でございます。今日はお集まりいただきましてありがとうございます。座ってお話させていただきます。

 国家戦略特区における今治市獣医学部の新設について、私は文部科学省側の事務方トップとしてその経緯に関わっていたということですが、その間における行政の在り方について、私は当事者の立場の中で非常に疑問を感じながら仕事をしていたということを申し上げざるを得ません。

 今般、国会においてその間の経緯を示す文書が議論され、野党からその存在について政府に対し問い質すということが行われ、また文部科学省においてその8枚の文書について本物であるかどうか、真正であるかどうか、存在するかどうかについて文部科学省の中で調査が行われたと聞いておりますが、その結果、これらの文書については確認できなかったという結論になったというふうに聞いております。

 これにつきまして私は残念な思いを抱いたわけでありまして、これらの文書について私が実際に在職中に共有していた文書でございますから、これは確実に存在していたわけであります。そのことについて、まず申し上げたいということ。

 もちろん、今回のこの文書を巡っては、こういう発言を私がすることによって文部科学省の中でも混乱が生じるだろうと思っております。文部科学省としては調査をしたけれども確認できなかったと言っているわけですから、私が出てきていやそれはありますよと言うことによって、文部科学省としても困った事態になるということだろうと思っておりまして、私の後輩たち、あるいは私がお世話になった大臣や副大臣といった三役の方々にこの件で御迷惑をおかけすることになるかもしれません。その点については、私は大変申し訳ないとは思いますが、しかし、あったものをなかったことにはできないということで、申し上げたいと思っております。

 そしてもう一つ、私はこの今治市における国家戦略特区の獣医学部新設の経緯について、その当事者であったわけでありまして、その当事者として少なくとも昨年から今年の1月21日、私が辞職するまでの間、当事者として業務に携わっていたわけですから、その間、十分真っ当な行政に方針を戻すということができなかった、結局押し切られてしまったということにつきまして、私自身が負わなければならない責任は大きいと思っております。これは私が事務方のトップとして、また大臣を支える事務次官として、十分仕事ができなかったということでありますので、その点については私の口からもこの場を借りて、文部科学省に対してもお詫びを申し上げたいと思う次第でございます。

 こういった思いから、この文書の真正性、信憑性ということ、それからこの国家戦略特区において今治市の提案が認められ、規制改革が行われ、獣医学部の新設が行われるという運びになったこの経緯について、私が思うところを述べたいというふうに思ったわけでございます。以上です。

[弁護士]

 今のがですね、ここでいろいろとこの前に天下り問題があったりした中で辞職されて、それでその後に何でここに出てきたのかということに対する説明です。

 次に、例えば今朝私も買いましたけれども、週刊文春であるとか、朝日新聞であるとか、そういったところで記事で引用されている文書が怪文書のようないい加減なものなのか、それとも文科省で職務遂行の中で作成されたものなのかということについて、御本人から説明をさせてもらいたいと思います。

[前川前事務次官]

 国会において提示され、それに基づいて野党からの要求に基づいて文部科学省において調査をした対象となっている文書が8種類あったと承知しております。

 この8種類の文書につきましては、これは私が昨年の9月から10月にかけて今治市の国家戦略特区の関係の課題につきまして、今治市の国家戦略特区において、文部科学省の高等教育局専門教育課から事務次官の立場で、事務次官室において報告・相談を受けた際に、私が担当課である専門教育課から受け取った文書に間違いありません。

 ですから、これは真正なるものである、文部科学省の中の専門教育課で作成され、幹部の間で共有された文書であると、これは間違いないということでございます。したがって、文部科学省においても、改めて調査をすれば存在が明らかになるはずのものであるというふうに考えております。

 幾つかの資料があるわけでございますが、文春の中でも紹介されておりますけれども、「平成30年4月開学を大前提に逆算して最短のスケジュールを作成し、共有いただきたい。これは官邸の最高レベルが言っていること」というペーパーがございますが、このペーパーは私のスケジュールによると、9月28日に私が専門教育課から説明を受けた際に受け取ったものと同じものであるということですね。内閣府から文部科学省に強く要請がきた、最初の一番強い要請がきた話でございまして、この要請が文部科学大臣までとにかく上げて、文部科学大臣が対応を求められたと、そういうきっかけになった文書といえます。

 それで、この文書に対して文部科学省として非常に苦慮していたわけでございますけれども、それに含めて大臣からも懸念点が示されたわけですね。なぜ30年4月開学でなければならないのかといった点や、やはりこれは与党の中にもいろいろな意見があるから与党の中での議論が必要ではないかと、こういった大臣からの指示もあった、と。この指示を受けて、内閣府でまた確認をするという作業を担当課はしていたわけです。その間、文部科学省としても農水省とか厚生労働省など、関係する省庁にコミットメントしてほしいということは幾度も繰り返し言っていたと、そういう状況がございます。

 週刊文春の中でも、大臣指示以降の後、10月4日の日付がついている義家副大臣レク概要というのがありますけれども、義家副大臣はその当時、その時点で農林水産省にコミットメントを求め、またそのために内閣官房の萩生田副長官にお願いをして、文部科学省だけではなくて、獣医師の養成、また新しい分野のライフサイエンス等の分野に責任を持つ農林水産省厚生労働省の参加を求めると、こういう作業をしてくださっていたわけですね。

 さらに、大臣御確認事項に対する内閣府の回答という文書がございます。この文書は私の定例会の日程からいきますと、10月17日に専門教育課から私が説明を受けた際に受け取った資料でございます。

 この内閣府からの回答というのは、いわば内閣府からの最後通告に近いもので、与党での議論は要らないということが書いてございますし、30年4月開学というのは決まったことだと、そこに「総理のご意向」という言葉も出てくるわけですけれども、30年4月ではなくて31年以降になるのであれば、それは文部科学省の設置認可の手続きが遅れるということでそうなるのは構わないが、そうでないかぎり、30年4月開学が決まったことで大前提であるとこういったことも言われている。

 また、農林水産省であれ厚生労働省であれ参加を求めることはできないと、会議に呼ぶことはできるけれども内閣府としてこの二省の実質的な参画を求めることはしないと、そういったことが申し出されたその時の資料でございます。

 いずれも真正なものである、本物であるということは、私はここで申し上げることができるわけでございます。

[弁護士]

 今の説明が、巷に出回っている書面が謂われのないものではなくて、確かに文科省の中で作成されて当時の前川氏に受け渡されたものであるという発言です。

[前川前事務次官]

 これらの文書は、私が担当課から説明を受けた時点、つまり昨年の9月から10月にかけて作成され、私が受け取ったということは間違いありません。

 それが現在もあるかどうかは、これはもう私は現在の状況を確認していないので分かりませんが、少なくとも作成したもの、共有したものは、そこに今でもあります。あるいは、パソコンのサーバーの中にあるのかもしれません。そこは、私は何とも申し上げられないが、少なくとも私が在職中に作成され、共有された文書であることは間違いないということでございます。

[弁護士]

 次に、この一連の問題について当時、内部の事務方の責任者であった前川氏が知っていることであるとか、あるいは問題だと考えていることについて話してもらいたいと思います。

[前川前事務次官]

 この広島県今治市の国家戦略特区において、その今治市における新しい獣医学部の新設に向けて、新たな追加規制改革を行うかどうかということについては、これはまず、一昨年の2015年から既に検討課題にはなっていたわけでございます。

 ただ検討するにあたっては、閣議決定で「日本再興戦略」改訂第201号というものがございます。この2015年6月に閣議決定されたこの日本再興戦略の中で、新たな獣医学部の新設を認めるかどうか検討するにあたっては、4つの条件があると閣議決定で示したわけでございます。

 それは、現在の提案主体による既存の獣医師養成ではない構想が具体化するということが1つ。

 それから、2つ目はライフサイエンスなどの獣医師が新たに対応すべき分野における具体的な需要が明らかになること。

 さらに、それらの需要について既存の大学の学部では対応が困難であるということ、これが3つ目ですね。

 さらに4つ目として、近年の獣医師の需給の動向を考慮しつつ、全国的な見地から検討すると。そういう4つの条件の下で検討するということが、閣議決定で決まっていたわけでございます。

 ですから、この獣医師養成の大学新設をもし追加規制改革で認めるということであれば、この4つの条件に合致しているということが説明されなければならないわけでありますけれども、私はこの4つの条件に合致しているということが実質的な根拠をもって説明されているとは思えません。

 また、文部科学省としては、大学の設置認可の権限を法律上持っておりますが、きちんと国民に説明できるかたちで権限を行使しなければならないわけであります。また、一旦設置認可がされた大学については、国民から預かっている税金から私学助成を行わなければならないということになります。したがって、大学の設置認可は、やはりきちんと根拠があるかたちで慎重に行われなければならないわけであります。

 特に医師獣医師職員など特定の分野については、文部科学省の告示である認可基準について将来の人材需要が見込めないということで、原則的に禁止というか、新設をしないという考え方に立っております。獣医学部についても、その中で獣医学部の新設は行わないという基準が既にあるわけでございまして、それは獣医学部の将来需要が見込まれないという前提があるからでございます。

 獣医学部の将来需要というのは、どこが責任を持って見通しを立てるのかといえば、それは農林水産省であります。農林水産省は獣医師国家試験も所管しておりますし、獣医師という業そのものを所管しているわけでございますから、獣医師の将来の需要ということについては、農林水産省がどんな分野でどういう獣医師が必要であるかということについて、きちんとした見通しを立ててくれなければいけない。

 あるいは、獣医学部で養成する人材で新たな分野、日本再興戦略でいわれているライフサイエンスで新たな分野があるというのであれば、その分野における新たな分野の需要というのが、きちんと責任ある省庁で明らかにされなければいけない。たとえば、新薬の開発ということについて、獣医学部で養成すべき人材であるというのであれば、それは厚生労働省で人材需要について見通しを立ててくれなければいけない。

 文部科学省としては、そういう責任ある省庁が将来の人材需要をはっきりと見通してくれないかぎりは、現在、告示で一律新設しないといっている分野において、新たな学部を新設するということに踏み切ることはできないわけであります。

 したがって、私ども文部科学省としては、農林水産省厚生労働省の実質的な参加がなければ、この問題について結論は出せないと言い続けてきたわけですね。

 ところが、結局、農林水産省厚生労働省も将来の人材需要についての見通しは示してくれませんでした。そのままで特区での規制改革が行われてしまったということでありまして、獣医学部の新設について、これまでの特例を認めるべきだという結論は出てしまったわけでございます。

 ですから、私どもとして、これは文部科学省としては、負いかねる責任を負わされたというふうに思っておりましたし、現在でも私はそう思っておりますが、改めて申し上げれば元々検討にあたって4つの条件があったと、その条件に合致しているかどうかを判断すべき責任がある内閣府がそこの判断を十分に根拠のあるかたちでしていないと私は思っております。

 また、将来の獣医学部で養成すべき人材について、その人材需要の見通しを明確に示すべき農林水産省あるいは厚生労働省が、その人材需要についての見通しを示していない、と。

 したがって、責任のあるそれらの主務省庁がそれぞれの役割を果たしていない中で、文部科学省においてその設置認可の審査をするというところまで来てしまっているということでございます。

 これは非常に行政の在り方として問題があると。極めて薄弱な根拠の下で規制緩和が行われたと。また、そのことによって、公正公平であるべき行政の在り方がゆがめられたと、私は認識しているわけでございます。

 ただ、経緯がそういうことであっても、今の状況は文部科学省がこの3月に加計学園から獣医学部新設の申請を受け取り、それを大学設置・学校法人審議会の審議に付託して、そこで審議会が審査を行っているという段階でございます。

 少なくとも文部科学省においては、きちんと基準に則って公平公正な審査をして、確かにこの獣医学部はきちんと審査した結果だと結論を出してほしいというふうに願っているわけでございまして、これ以上行政の在り方をゆがめることはないようにしてほしいと、そのように願っているわけでございます。

 私がその過程で責任ある立場にいたというのは事実です。ですから、この私の努力不足があったということは認めざるを得ないと思っておりますので、その点は最初に述べたとおりであります。

 しかし、少なくとも文部科学省がこの先は、大学の設置認可という文部科学省の専権事項の部分で仕事をしなければならないので、その部分においてはきちんとした審査をしてほしいと思っているわけです。

 

 ※続けて行われた記者との質疑応答については、今回は掲載しないこととします。

展勝地の桜

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 知人から誘われ、展勝地へ花見に行く。桜は満開で、誰もがみな顔を見上げて歩いていた。

 展勝地は何度か訪れているが、堂々と咲き誇った桜が連なり、人間の頭上を覆いつくすという光景は圧巻である。しかし、子どもの頃から私は、花を愛でるにもそれなりの流儀を要するのであって、夥しい数の桜を観賞して歩くのは悪趣味なのかもしれないと考えていた。桜を観るために舗装された道があり、多くの屋台が立ち並び、団子や飲み物を食べながら歩く。以前、食べ物の屑が道路脇に散らかっていたこともあった。

 夥しい数の桜の下に、同じくらい夥しい人が大挙襲来する。いかにマナーが良かったとしても、単純に闊歩する人間の数が増えれば、それに応じてごみの数も増え、自然破壊は拡がっていく。これら環境の問題は、マナーの良し悪しを競うこととは別問題である。そもそも、人間が歩くための道が舗装され、飲み食いするための屋台が立ち並ぶということが黙認されている時点で、穢されることはあっても清くなることはないのだから、環境の美化について考えないということが前提となっている。要するに、花鳥風月を愛でることは、穢れと隣り合わせでなければ成り立たないのである。

 桜の美しさは人間の暮らしとは無縁であり、桜が美しいと思う人間の主観とは乖離したところに存在する。人間が足を踏み入れないような僻地にこそ、可憐な花が咲くのではないか。花の美しさを索めて人間が一定の場所に密集するということは、純粋に花を愛でるという行為から遠ざかってしまい、桜を人間の欲望の犠牲とすることであり、人間を前にして、桜花は客体にすぎないという宣言でしかないように思える。私の中には、幼い頃から、そういった人間主体的な状況を敏感に察知しては辟易してしまうところがある。自然を愛でることは、人間主体の論理からは切り離されている。

 小学校で「さくらさくら」を合唱した時、強烈な違和感を感じた。それらは音楽に対してだけでなく、言葉に対する冒瀆であるように感じた。一刻も早く、この「さくら」という浅薄な記号を打ち砕かなければいけないという考えに至った。それはある種の洗脳といってよいもので、言語の可能性も自由な想像力もその時にすべて失い、堅牢な共同幻想の中にとらえられてしまった気がした。桜という装置が軍国化や国粋主義の象徴として利用されてきた負の歴史から、継時的にも共時的にも、私たちは切り離されなくてはいけなかったのではないか。

 等々、くだらないことを考えながら花見をした。知人に話したところで理解されないのでふだんからこういうことは共有しないようにしている。なるべく共同幻想に引きずり込まれることなく、純粋に花の美しさを愛でることができればよいと思うけれど。

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万寿山の草花

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 知人と早春の万寿山を散策した。不安定な天候で、雨がポツリポツリと降っては止んでいた。

 やまゆりの宿の敷地を抜けていく緩やかなルートを択んだけれど、登り始めてからすぐに足元に芹葉黄蓮や猩々袴が咲き乱れているのに気づく。他にも、岩団扇、三角草、春蘭や片栗の蕾などに出遇うことができた。厳しい冬が過ぎ去って、早春に新たな命を芽吹かせている姿を見ると、やはり心動かされるものがある。

 昨年も4月中旬頃の同じ時期に訪れたが、天候に恵まれず、見たいと念願した草花は蕾の段階だった。蕾を見ると、開花の姿を見届けたいと思うけれども、昨年は仕事で叶わなかった。一緒に登山に付き合った友人からは、雨男ではないかと言われたが、今年も不運なことに突然の雨に見舞われてしまった。昨年の教訓から、合羽や傘などを事前に用意していたので助かった。

 それにしても、草花に見惚れて写真を撮ってしまうと、時間が大幅にロスしてしまう。出来るだけ足早に駈けて汗を流すよう努めているので、もしかすると魅力的な草花との出逢いを逃したかもしれない。爽快に汗を流して下山したら、精華の湯の熱湯に浸かるというのが恒例になっている。

(熱湯といえば、学生時代、湯河原にある「ままねの湯」が好きで、何回も通っていたのを思い出す。この熱湯は凄まじく、のぼせるというレベルを超えた状態になるのだけれど、それが何ともいえず癖になった。しばらく行けてないなぁ……。)

馬酔木の花

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 昼過ぎに公園を散策してみると、あちこちで馬酔木の花が咲いていた。白く可憐な花が房状に重なり合い、樹々を覆っている。山茱萸の黄色い花も咲いていて、春に咲く黄色い花のなかで先陣を切る姿は潔く思えた。ふと斜めに光が差し込むと、明るく鮮やかな黄金色が浮かび上がって、早春の訪れを感じさせた。

 山茱萸といえば、昨年、ホワイトリカーと氷砂糖で山茱萸酒を作った。山茱萸酒のほか、梅やサルナシ、サクランボやマルメロ、なつめや菊花、カモミールジャーマンや月桂樹等々、いろんな種類の酒を仕込んだ。毎晩、少量ずつ飲むようにしているけれど、じわじわと体の調子が良くなってきているように思う。

 そういえば、鷗外の『かのように』に、「ドイツのような寒い国では、春が一どきに来て、どの花も一しょに咲きます」という秀麿の台詞がある。ドイツでなく、現在私が住んでいる場所でもそれは同じことなのだった。寒い北国の地方においては、さまざまな花が同時に咲き乱れるという、まるで絢爛な春の時間に取り残されたような、蠱惑的な僥倖の瞬間がある。これから桜、梅、連翹などが次々と咲き始めることで、「春」の風景が少しずつ作られていく。

 書店に寄り道して「文學界」を購入し、真っ先に新人賞受賞作を読んだ。「四月も五日を過ぎると、(……)水仙が連翹が咲き黄色味が加えられた」という風景描写があり、どこの地方の話かと思っていると、なんと盛岡が小説の舞台だった。著者は盛岡在住とのこと。しかも、私の生まれ故郷の地名も登場し、死というものを考える上で重要なトポスになっている。硬質で慎重深い文体を採用する一方で、不要な情報は削ぎ落とされ、隅々まで配慮が行き届いているという意味で洗練された印象を受けた。たとえば、SRS性別適合手術もあえて単なるひとつの付帯情報として描かれていながら、有機的な奥行きをもたらすあたり、『プ—ルサイド小景』の手法を想起させる。(つまり、そういう作り込みの緊張感において、「インドシナ難民」という言葉を発することによる世界の急激な拡張に耐えうるのか、などというところが気になったけれど。)終盤、滝沢市の日浅の実家を訪れる場面があるが、ここでも妙な既視感を感じたのは、昨年公開された映画「リップヴァンウィンクルの花嫁」の安室と真白の母とのやり取りに酷似していたからかもしれない。

 余談だが、ハニーブッシュというものを家で煮出してタンブラーに入れて持ち歩いている。ハニーブッシュは南アフリカのフィンボス(灌木群生地帯)に自生する灌木で、甘い蜂蜜の香りのする黄色い花が咲くという。口を近づけたときにほんのりと蜂蜜の匂いが漂ってきて、優しい風味のなかに甘酸っぱさであったり、ハーブのような香りであったり、さまざまな香りで充たされる。この香りのバランスが、精神的な癒しをもたらしてくれる。花の効用たるや本当に凄いなあ、と感嘆する。

 

 ***

 そういえば、この公園はいつ行っても鳩がたくさんいる。餌を撒いている人も多く見かけ、鳩の方から嬉しそうに手乗りしているように見える。近寄っても逃げようとしないので手を差し出してみたが、残念ながら手乗りしてくれなかった。さすが鳩、餌を持っていないと一瞬で見抜いたのかもしれない。

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花椿

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  世間では2度目のプレミアムフライデーでも、私は深夜の帰宅。それどころか、休日出勤というオマケまで。(そもそも、年度末なのに早く帰れる人はどのくらいいるのか……)

 土曜の仕事は早めに切り上げて、和菓子屋に併設されたカフェへ。手前にディスプレイされている丸くて赤い菓子が、春らしい雰囲気を醸し出す。燃えるような鮮やかな色と、端正で優雅な佇まいに惹きつけられる。いっけん人参のようにも見え、トマトのようにも見えるが、実はこれ、花椿を模った和菓子らしい。

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 上から眺めてみると、雄蕊の葯までも細かく表現されている。空洞となっている中央の部分から、甘美な匂いが放散しているような錯覚にとらわれる。まるで、花から花へ、蜜から蜜へと歴訪する蜜蜂の気分に。そっと縦に黒文字を忍ばせると、中には漉し餡がぎっしりと詰まっている。

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  考えてみると、数年前からこういう正統派の和菓子は世間的に劣勢である。コンビニのスイーツの棚に陳列されているものも、シュークリームやティラミスなどの洋菓子ばかりで、大福やわらび餅というものが置いてあるかと思えば、大福やわらび餅までも洋風とある。洋菓子が優勢であるならまだしも、和菓子の中身までも洋風化されているとは一体どういうことなのだろうか、と疑問を感じていた。

 洋菓子の要といえる生クリームなどの起源は牛乳だが、和菓子の要である餡は小豆である。豆よりも乳が急速に受け入れられてきた背景には、人工的な食物を摂取するのに違和感を感じなくなってきていたり、即物的な美味しさに惹かれてしまう、つまり食の婉曲的な愉悦を失うということがあるのではないか。あるいは、赤子にとって母乳が必需品であるように、一種の幼児回帰なのかもしれないとも推察できる。流行に敏感なコンビニ戦略の裏に、現代の利便性というものが生み出した負の側面が透けて見えるのが気味悪くもある。

 この和菓子屋に陳列されている菓子は、この花椿だけに限った話ではなく、どれをとってみても花のように凛とした優雅な佇まいをしている。そこにはアイディアを生み出して具現化する時の葛藤から、完成後に名を冠するまでの覚悟が煌いている。和菓子が食卓から遠ざかっていることは、そういった一連のプロセスへの不認可(というか、無関心による排斥)でもあるのではないか。慌ただしい現代人にとって、美味しいかどうかということだけがすべてであり、それ以外の要素には何の関心もないのかもしれない。とはいえ、生活に障りがないものを全て削ぎ落して、生活というものが成り立つとは到底思えない。逆に、人間の生活というものは、生活にとって不必要であり無意味なもの、「剰余」の部分を取り入れることによって成り立っているといえる。鷗外が描いていた「空車」の無意味性の美学は、時代を超えて不滅であるのかもしれない。

The Clever Rain Tree

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 年度末ということで土曜出勤する。僭越ながら、昇任祝いということでお花やお菓子などを頂いたりして、大変有難かった。

 勤務先の近所にある和菓子屋で知人とお茶をする。和菓子屋なのにランチプレートというのがあるらしく、注文してみることに。俵型のおむすび、お稲荷さん、真薯のお吸い物、卯の花、漬物や饅頭などが載っていて、質素だけれど品が良く、心のこもった料理だった。実家の料理を食べているような既視感というか、懐かしい感覚もあった。

 それよりも、なぜ写真を撮るときに汁物のお椀をとらなかったのか、と反省している。

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 押入れを整理していたら、大江氏の「レイン・ツリー」こと、『「雨の木」(レイン・ツリー)を聴く女たち』)が出てきた。中学1年の時、ピアノの習い事の帰りに、たまたま古本屋で購入したもの。大江作品の中で最初に読んだのがこれだった。当時はこの小説のテーマがよく理解できていなかったと思うが、鞄に入れて学校に持って行ったりしていた。

 当時、中学1年の国語教科書はわりと好きだったけれど、読み物としては物足りなさを感じた。近代文学は濃いものもあり充実していたが、特に現代文学のほうが物足りなかった。その時に、古本屋で購入したこの本は私にとって重要で、私にとっての現代文学のテキスト、模範として、その物足りなさを充たしてくれた。

 何よりも驚いたのは、描かれているテーマは難解でありながらも、一つひとつの文章が明晰で洗練されているということ。風通しの良い文章だった。従来の他の小説にみられるような、思想の難解さに応じて晦渋さが増すものとは決定的に異なっていた。たとえば、テクストを氷上に喩えて、いままでの現代文学がスケートだったとすると、この読書体験はスキーのような圧倒的な明快さがあった。こういう洗練された文体=骨組によってどういう建物を築き上げることができるのだろう、という好奇心ばかりが募った。中学生には意味の解せない箇所も多かったが、それでも常に面白さが止まらなかったのは、そのコントロールされた文体への好奇心ともいうべきものが、読み進める上での原動力になったからだったように思える。しかも、その後に読んだ「芽むしり仔撃ち」の文体は、それとはまた別の制禦の理論に依るものであると思えた。(余談だが、クノーの文体練習を知ったのは高校に入ってからだったが、一つの対象を描くとしても99通りの叙述の方法があるということに、文体は作者の精神の蠢きを映す鏡ではないという事実を証明された気がしたのだった。)

 それにしても、この本に出てくる料理はどれも珍しいものばかりで、食欲をそそられた。料理を描くことは文明論に係わることであり、国際的な問題でもあるということを知った瞬間であった。当時、(本作に登場する)「パパイヤ豆腐チャンプルー」を作ってほしいと親に懇願したら、全く違うビーフンの料理が出てきたのを憶えている。

Florentins

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 特に予定のない休日には、フロランタンをつくる。幼い頃には頻繁に作っていた憶えがあって、家族団欒の年中行事としての趣きもあった気もするが、しばらく遠ざかっていた。今はただ単純に食べたいから作るだけのこと。周りの焦げてパリパリした部分が美味しくて手を伸ばすので、先に外周の部分から無くなっていく。

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 大学時代の友人が大手新聞社で記者をしているのだけれど、久しぶりに長電話をする。(といっても、殆どは懐かしい思い出話や近況報告に終始したわけですが……)

 ここ最近の報道の在り方について、余りにもアンフェアではないかと疑問に思うことが屡々あった。客観的事実を積み上げていき、その上で科学的分析を行うという基本が踏み躙られているという気しかしない。それどころか、人権侵害の域に達したように思う。そのジレンマについては、友人も散々思い悩んでいるようである。

 なぜか証拠能力のない人物の発言が大々的に取り上げられ、証拠としての妥当性を精査することもなく、一般人が疑惑の対象となったり、証人喚問されるという事態も理解しがたい。しかも、(K氏を例にとってみれば)与党は参考人招致すら躊躇っていたにもかかわらず、一転、証人喚問に応じた理由が「総理への侮辱」という不可解なものだが、この世界には人の数ほど「侮辱」は存在しているわけで、マスコミが取り上げないから表面化しないだけの話である。リテラシーのない記者によって証拠能力のない人物の発言が証拠として取り上げられ、世間を賑わせるという構図自体に問題があるのだろう。内閣支持率47.6%というのも、こういった証拠不十分や報道のノイズによるものかと思うと、いたたまれなくなる。森友学園の写真とともに総理の姿が映し出されたり、国会で声を荒げる姿が映し出される。信じられないことだが、それだけで煽動されてしまう人も案外多いように思える。

  それにしても、中学や高校時代に本を愛読していた作家や評論家などの文化人が、それらの証拠不十分な報道に加担し、一私人の実名を挙げて攻撃しているのを見るにつけ、さすがに幻滅し辟易してしまった。攻撃の矛先はそこではないだろうということで、(あれほどの資料価値の高い本を書いた人にもかかわらず)大体なぜ事前に論拠を精査しないかと不思議でしょうがない。この純粋培養的に醸成された産物というか、時代遅れの「文化人的態度」……とりあえず、権力者を批判すれば文化人らしさを示せるという「文化人」の態度は、最も文化人たるべき者から遠ざかっているようにしか思えない。そういうポーズとしての批判は、私が最も軽蔑し、忌み嫌うものに他ならない。何度も言うけれど、表現の自由云々以前に、幼い頃に本を読んでいた著者がここまでリテラシーがなく、無条件攻撃を加えるような思考回路の人だったかと思うと、とにかく情けなくてしょうがなくなる。

 私が大好きな言葉に「侮蔑の天性」というものがある。三島の『仮面の告白』で出てくる言葉だが、これだけ鋭く本質を突いた言葉は余りないと思っている。善人悪人問わず、公人私人問わず、この「侮蔑の天性」(むろん、他者を傷付けるという意味での侮蔑ではない)が生来的に備わっていて、その天性を気高く、余すところなく発揮できる者が文化人に値するのではないかと個人的には思う。今回の報道に接して感じたのは、この「侮蔑の才能」が大半の人びとに欠けており、本来の敵ではなく、何の罪もない人びとへ侮蔑の刃の矛先を誤った形で向けてしまった者が多かったということ。それと、教養の高い人でさえ侮蔑の対象を見誤うこともあれば、一方で普段全くニュースに興味がない人でもフェイク(というか、過剰なまでの圧力、歪曲?)をすぐに見抜いていた人もいたということ。メディア・リテラシーが本当に必要なのは、受け手側よりも送り手側の方なのではないだろうか。