Cashew books

本を貪るのは好物のカシューナッツを食べるのに似ている

薩摩芋餅、立食いそば

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 職場の近くに、若い女性が切盛りしている小さなカフェがある。珈琲などの飲み物やロコモコなどのランチだけでなく、なぜかお餅や雑煮にも力を入れている。

 新メニューに薩摩芋のお餅というのがあったので、試しに注文してみる。驚いたのは、たれがしょうゆ味のそれではなく、薩摩芋のペーストだったこと。どろっとして濃厚だがそれほど変に甘くなく、素材の甘さが引き立つ程度に抑えられている。案外、薩摩芋の風味が餅と合っていて、不思議な感覚だった。

 久々の餅の威力たるや凄まじく、ボリューミーで腹持ちがよい。おかげで晩飯抜きとなった。

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 そういえば、前に所属していた部署の上司は、自称「立食いそばマニア」だった。

 会議や仕事が終わると、よく駅の立食いそばへ誘われた。うどん嫌いで、そば専門の人だった。熱々のそばが差し出されると、素早く麺を啜り、あっという間につゆまで平らげてしまうのだった。その時点で、私はまだ半分も食べ終えていなかった。まるで食事の迅速性を競っているかのようだった。

 一緒にそばを食べている時、「あまりにホットドッグ的な」という倉橋のエッセイが頭をよぎるのだった。ホットドッグがアメリカにおける単一性(unity)の象徴であり、アンチ・ダイバーシティであるとするならば、立食いそば・うどんの類も同様というのである。味や旨さの実感ということの優先順位が低く、単に空腹を満たすこと、機械的に喉から胃へ押し流すことが目的なのであって、偏執狂の一種とみることもできる。

 逆に、牛鍋の旨さに恍惚となりながら、娘が差し伸べる箸すらも無視し、食に集中する男の姿を描いたのが鷗外。まるでこの男は、牛鍋の旨さを実感することに対して全神経を費やし、全ての時間を捧げているようである。(同じく、鷗外も圧倒的で的確な描写と無駄のない論理展開によって、その一幕を描き出している。)独逸流の衛生学かぶれの鷗外は何でもかんでも火を通したがる癖があったという、森茉莉『貧乏サヴァラン』の逸話をどうしても想起せざるを得ないが、この芸術至上主義的態度についても、ホットドッグの事例と同様、偏執狂の一種といえるかもしれない。

 ある日、大学教授との打ち合わせが終わった頃、よろしければ立食いそばに行きませんか、と突然上司が訊ねた。教授は若干戸惑った様子で、しばらく立食いとは縁がないですねえと遠回しに話していたが、上司は全く意に介さずといったふうだった。また、教授は、大学傍の料亭の鴨南蛮が好きだとあえて仰っておられたが、上司はさしたる興味も示さず、その場の相槌で軽く受け流していた。まだ部下も連れていってあげたことのない穴場の駅の立食いですので、期待してください、などと自慢気に話していた。

 結局、その駅で出されたそばは、他の駅の立食いそばと全く同じもので、何の違いもなかった。むしろ、麺の食感が少し不満だったので、個人的には別の駅の立食いそばのほうが好みだった。この駅の立食いが穴場というのは嘘だったのではないかと勘繰りもしたが、食後に上司が満足気な表情を浮かべていたのを見て、ここが穴場というのはあながち嘘ではなく本当なんだな、と思った。穴場の理由は、さっぱり分からないけれど。

河久弥恵子『コンクリートと高さと人達』

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 9月末ですが、残暑ですね。1か月前に逆戻りしたかのようです。喫茶店のテラスの噴水が涼しげだったので、撮ってみました。

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 最近読んだ本のなかで感銘を受けたのが、河久弥恵子『コンクリートと高さと人達』深夜叢書社、1973年)。四十余年も前とは思えないほど、実験的な傑作だった。

 世界が相対として私たちとの関係を拒否したらどうなるか、というテーマに真正面から向かい合っている。人間と事物の相関、人間と世界の相関に根本的な疑義が生じ、苦悩し懊悩するさまが描かれている。たとえば、ロカンタンの嘔吐のレベルなどとは異なり、盗みという行為を経て、刃物で危害を加えるという地点へと到る。

(……)彼はぼくをみた。ぼくだけを見た。二人は向き合って立ち止まった。ぼくと彼だけの関係。ぼく達との間には、一つの関係が出来上がっていた。彼はその意味を知ってはいなかった。ぼくはバッグに彼の手の体温を感じとったとき、体温はそこにこびりついていた。ぼくの手の中で、それは拡がり出していた。ぼくはみぶるいした。(13)

(……)ぼくは不安になった。始まってしまっている、二人の関係が進んでいたからだ。ぼくの前で、彼は怖れ出した。ぼくがいる、ぼくが、ある、この意味がわかったからだ。ぼくにも、彼のある、意味がわかっていた。地下道はなめらかな通路で、何にもない通路で、バッグをもった男に恐怖があった。ぼくも恐かった。ぼくはナイフを出した。ぼくはナイフでさした。男の恐怖に従ったのだ。(20) 

 ここで描かれる人間の意識は、世界との均衡を失い、あらゆる事物から遮断されているようにみえる。(上記の「バッグ」というのは、「バッグ」としてのバッグではなく、「エイリアン」としてのバッグといえるかもしれない。つまり、知識の体系から外れているということである。)しかし、同時に、他者との無関係性を突き詰め、「社会性」(という、いかにも世間が好みそうな)概念を完全に失ったとしても、人間存在が事物と何らかの関係を継続せねばならないことが描かれている。意識のベクトルは意味の把握ではなく、世界の構造変化の察知へと向けられる。 

 それはまるで、1cmの対角線が√2 の無理数にもかかわらず一定のディメンションの中に見事に収まるという、ユークリッドの事象を想起させる。別の方向へと移行するわけではないという、まさにそのことによって、存在論、認識論の枠組みが崩れていく。それと同じように、事物との相関から逸脱した人間存在の一形式の表象によって、むしろ群衆は事物と密接に係っているようでありながら馴致しているだけの存在にすぎないこと、また、事物との相関を失うことによって、新たな事物との係わり、事物との意味の発見が可能であることを提示しているように思う。

 現代でも、Suicaなどのプリペイド電子マネーによってさまざまな数の接触をこなしているが、その異常性であるとか、その接触が遮断されたらどうなるかということを考える機会は少ない。あるいは、3Dという表現が発達しているが、虚像と実像との完全な差異や溝といったものを考えることもまた少ない。「把捉する」とか「把握する」という言葉は、当然ながらすべて「つかむ」という行為に由来している。ふれるということは、認識の最終局面なのだ。もし、触覚が危うくなり、対象をつかむことができないならば、人間は蹲ることしかできなくなるだろう。

 視覚・触覚優勢の現代において、みること、ふれることの問題、あるいは人間と世界との相関について考える上で、改めて再読に値する一冊といえるかもしれない。

飛島のいか塩辛

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 塩辛い、というのが飛島の塩辛を初めて食した時の第一印象。あまりの塩辛さに、酸味のある梅干を食べた時のように口が窄んでしまった。何だこれは、世の中にこんなに塩辛い食べ物が存在するのか、という驚きで呆然とし、箸が進まなかった。

 ある日、絹ごし豆腐を食べていて、醤油の代わりに塩辛の魚醤を数滴垂らしてみた。濃厚な魚醤の旨味がまろやかな豆腐と合い、とても美味しかった。通常の豆腐より若干濃厚で、クリームチーズのような食感の豆腐だったので、魚醤のコクと上手く合ったのかもしれない。ほかにも、野菜炒めの調味料としても抜群で、火を通すことによって魚醤特有の生臭さが消え、芳醇な香りがひろがる。

 気付いた頃には、すっかり飛島の塩辛の虜となっていた。飛び上がるくらいに塩分が高く不健康だと思いながらも、どうしてもこの一切れが止められない。頭で制御しようと思っても、塩辛い痺れを求めて、手が勝手に動いてしまう。まるで塩の塊であるかのように塩辛くて堪らない、こういう食品から濃厚な旨味の世界が展開していくことが不思議でならなかった。

 飛島の塩辛は、一般的な調理法とは異なる。一般的な塩辛のようにイカを刻んで肝と和えるのではなく、まず肝を塩漬け・醗酵させて魚醤を作り、そこに塩漬けにしたイカ(塩抜きしたもの)を浸け込むのである。イカの身ではなく内臓を醗酵させて抽出する魚醤といえば、能登半島で作られる「いかいしり」(いしりとは、魚汁(いしる)の訛った呼び方といわれる)がよく知られているが、そこまで強烈な内臓系の旨味を感じるわけではない。

 身にしても汁にしても、一杯のイカを余すところなく調理し尽すことによって生まれる。そのイカが塩漬けにされて旨味が熟成するタイミングと、肝を醗酵させ魚醤が出来る過程、一連の製造工程において全く無駄がないのである。無駄を排すということが調理の真髄ではなかっただろうか。さらに、一般的に市販されている瓶ビールを再利用して販売されるというところも、ユーモアに溢れている。

 信じられないことだが、イカを調理する際、内臓はごみへ捨ててしまう主婦も多いと聞く。たとえば、イカの刺身を作る上で、新鮮な身以外は何もかも不必要なのだ。イカだけでなく、他の魚あるいは肉も同じことで、重要なのは身であり、それ以外の部分は「食べる」という行為から切り離されている。だいたい、魚屋には刺身用の身が陳列され、肉屋には差障りのない部位のみが並び、それを買ってきて、「火で焼く」という最も単純かつ原始的な調理法を未だに繰り返している人間の在りようというものに想いを馳せると、時間の推移とともに進化どころか退化しているのではないかとすら思えてくる。

 それに、瓶ビールを再利用するところも、何でも斬新なパッケージで商品化してしまう現代の風潮と逆行していて面白い。そもそもパッケージなど単に人を引き寄せるための手段でしかないのだから、外観ではなく商品の中身に投資すべきなのだ。瓶ビールという前近代的な発想には、「商品開発」という一連のプロセスが必然的に陥ってしまうようないかなる卑俗さもない。孤島に流れる時間がゆるやかであるように、資本主義的な人間のこすからさとは無縁でありつづける。

 現在、だし醤油というしょうゆ加工品が席巻しているが、一方で醤油の消費量は年々低下しているという。大豆で出来る醤油の大量生産により魚醤が駆逐された、それと同じ道を辿るのだろうかと思えてならない。そもそも、魚醤と醤油は動物性か植物性かの違いはあれども、だし醤油というものは醤油に似せて作られた奇怪なものでしかない。それに、旨味調味料であるたんぱく加水分解物がクロロプロパノール類(3-MCPDという発がん性のある物質を生成すると従来からいわれてきたのだから、愈々、利便性が食の安全を脅かす事態になっていることも頭の片隅に置いたほうがよさそうである。

村田沙耶香『コンビニ人間』

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 久しぶりに、神保町のミロンガ・ヌオーバを訪ねた。学生の頃、神保町でバイトしていたが、甘い蜜に引寄せられるように、ミロンガの入口扉をよく開けた。学生の身分にしては敷居が高かったが、重厚な扉を開けた先にひろがる、タンゴの流れる店内の仄暗い雰囲気が好きだった。他の喫茶店は、ピザトーストの味は申し分なかったにしても、スペースが狭くて窮屈な思いをしたり、会話がうるさかったり、個人的にゆったりと落ち着ける場所ではなく、結局、ミロンガに逃げ込んでしまうのだった。

 「世界のビール」というキャッチコピーの踊るこの店で飲んだのは、スリランカ産の黒ビール「ライオン・スタウト」。焙煎したコーヒーやビターチョコに似た甘苦さが口の中にひろがり、ほどよい酸味でぐいぐい飲める。といっても、一気に飲み干すのは勿体ない気がして、一口含んではグラスを置く。黒い泡のきめ細やかさを見つめていると目が回りそうになる。アルコール8%とは思えないほど、ぐいぐい飲めてしまうのが怖い。

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 (中々休みがなく、実質2週間ぶりだったので……)遅ればせながら、購入していた「文藝春秋」掲載の村田沙耶香「コンビニ人間」を読了した。

 著者のユーモアセンスも抜群で、読み物として面白く、吹きだしそうになる部分が幾つもあった。なかでも、「いらっしゃいませ」「はい」などという言葉のマニュアル的な使用法は非常に面白く、効果的だと感じた。文脈というものを上手く利用しながら、文脈と懸け離れたところで、あえてこういう単純な言葉を意識的に置いていく手つきは見事だと思う。

 つまり、細かな語彙のレベルに至るまで、文学的コノテーションを自然に回避しようという配慮が行き届いていた。まったく肩肘を張らずに、自然体で書き進めることで、変な「文学臭」というものが全くせず、きれいさっぱり取り除かれている。あえてコノテーションを転倒させ利用しようとするのも玄人的な技術だとすれば、本作のようにコノテーションをごく自然に回避してみせる技も、よほど玄人でなければ出来ないはずだ。

 ただ、(又吉「火花」にも感じたことだが)あくまでも「読み物」として面白いと感じたまでで、文学的な毒もなければ目から鱗の出るような新しい表現なども見当たらず、本作が芥川賞受賞作として相応しいのかどうか疑問が残った。別に錦の御旗として援用するなどという気はさらさらないが、「能天気なディストピアから 逃れる方法を早く模索してくれ、と同業者に呼びかけたい」という島田の選評は一顧に値するのではないか。

 やはり、どうしても凡庸な要素を集めて、「コンビニ人間」というテーマに収斂させただけに思える。それが周囲の現代的という評価に直結するが、果たしてコンビニ人間の何が現代的だというのだろうか、さっぱり分からない。ありきたりな要素を集めて、そこに現代的な色をつければよいという方法論の踏襲は、もはや伝統芸になりきってしまっている。

 たとえば、一段落空ける前など妙に文学的な文章が挿し込まれるが、その余韻というものが、まるで演歌のこぶしのように気恥ずかしくて堪らなかった。審査員の山田氏のシンパシーは、そういう意味でのクラシックスに対する共振なのでは、と訝しみたくもなる。

橋野食堂@釜石

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 どこまでも素朴なラーメンである、――釜石ラーメンを食べるとそのように感じさせられる。

 「釜石ラーメン」は、透き通ったスープと極細縮れ麺が特徴といわれる。最近は、カップ麺化されるなど商業的な動きも広まっているが、東北地方の人々がイメージする「中華そば」の模範そのものであり、特に物珍しいわけでもない。従って、その地方固有の文化かと問われれば、首を傾げたくなるところもあるだろう。

 しかし、たまに釜石ラーメンを食べると、この素朴さは誰にも真似できないのではと思う。味について言葉で伝えるのはとても難しいが、特に橋野食堂のラーメン(写真は、チャーシューメン)の場合は、透明な琥珀色のスープが器になみなみ盛られ、まるでうどんの鰹出汁のようにさっぱりとしている。また、4枚の厚みのあるチャーシューは噛み応えがあり、砂糖醤油で味付けしたかのようなほんのりとした甘さも感じる。

 個人的に、鵜住居駅前にあった富乃屋という食堂のラーメンが好きだったが、ここのラーメンも器の縁のところまでなみなみとスープが注がれていたので、器を両手で持ち、まずスープから飲む癖があった。残念なことに、このお店は東日本大震災の犠牲となってしまったため、もう二度とこの味を口にできないのが悔やまれる。また、分厚いチャーシューといえば、平田の佐々木食堂という、非常に分厚く、中々噛み千切れないチャーシューを提供しているお店を想起させる。

 たまたま観光客の方がお店に来ていたが、やや微妙な表情を浮かべていた。恐らく、不味くもないが、とりたてて美味しくもなかったのだろう。その方は、「こんなに細い麺、初めて食べた」と呟いており、麺がのびてしまっているように感じたのかもしれない。

 おそらく、極細麺が使われているのは、多忙な製鉄所の社員やせっかちな沿岸部の漁師たちに配慮した結果なのだろう。注文を受けてすぐにラーメンを茹で、さっと食べて仕事に戻れるようにというように。また、スープがここまであっさりとしているのも、おそらく呑んべえが多いということに配慮し、お酒のシメ的な要素もあったのではないか。

 それに、観光客にとって賛否両論あるのは当然である。どう考えても、地味で素朴なラーメンより、斬新で物珍しいラーメンを好む人のほうが多いはずだから。ただ、このラーメンは歴史的にもとことん実用的な産物であって、この素朴さは戦後の鉄鋼業労働者の生活スタイルを考慮した結果でもある。そういう意味では、このラーメンの味よりも、このラーメンが実用的であったという事実において文化を象徴しているといえるかもしれない。

煮干しの楽観@立川

 山梨滞在の帰りに、ホリデー快速富士山号に乗車した。土休日のみ運行されており、河口湖駅から新宿駅までを乗換えなしで移動できるので非常に便利。今回、河口湖駅から乗車し、本来は新宿で降りるべきだったが、あえて立川で降りた。約2年ぶりに、楽観(青)というラーメン店へ行きたかったからである。

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  前回は醤油ベースの琥珀を食べたので、今回は塩ベースのパール(特製)にした。特製と通常との違いは、チャーシュー1枚、味玉、海苔のトッピングがあること。以前、具材がチャーシュー、メンマ、玉ねぎしかなく若干味気ない思いをしたので、せっかくの機会だと思い、少し背伸びをしてみた。

 結論からいえば、私は「琥珀」よりも「パール」派。(私はふだんレンゲを使わないので)器を持ち上げてスープを顔に近づけてみたところ、店内の照明の光がスープの艶を浮かび上がらせ、その輝きは、まさに「パール」という言葉でしか表現できないような印象であった。

 スープを口に含むと、まずオリーブオイルの香味が口内に拡がり、その後で煮干だしのコクが感じられる。とはいっても、動物系の生臭さは全くなく、さっぱりとした洋風仕立てのスープに仕上がっている。これだけシンプルなスープの中にこれだけの艶とコクがあるからには、おそらく魚介系の具材を使用しているのかもしれない。まるで、脳はブイヤベースのような、魚介のエキスとしてのスープを飲んでいるかのように錯覚した。

 しかし、どうしてもそのスープの奥行きを邪魔してしまうのが、この玉ねぎだった。あえて玉ねぎが粗みじん切りにされているのは、器でスープを口に入れるときにスープが隙間から流れるようにするためか、とも邪推した。個人的に、こういう油分のあるスープをレンゲで掬い取るのは不適であると感じるため、極力使用したくない。玉ねぎをみじん切りにしてふんだんに載せたラーメンを八王子系というらしいが、その八王子系のコンセプトとこのオリーブオイル仕立てのスープがどこまで噛み合っているのか、少々疑問に感じた。

 チャーシュー、メンマ、味玉などの具材については、頬が落ちるくらい絶品だった。バーナーで炙られたチャーシューは、程よく味が染みていて柔らかく、それでいて肩ロースのしっかりとした歯応えを感じさせる。(ただ、以前よりも明らかにチャーシューが小ぶりになっているような気がした。これは、店頭に貼られていた写真と較べると、一目瞭然ではないかと思う。)メンマや味玉についても同様で、程よい柔らかさで、スープと同調しながら素材の味を感じられる味付けになっている。

 それから、ストレートの中細麺もコシがあって喉越しもよく、食べ応えがある。この麺の細さと歯応えが素材を活かしているわけで、個人的に最も気に入った点である。たとえば、これを縮れ極細麺などにしてしまうと、スープに絡んでしまって、変な油分を凝集させてしまう気がする。つるっと麺を吸い込んでしまいたくても、特にオリーブオイルを使用したスープの場合、油分との関係でアンバランスになるのではないかという懸念も生じる。

 非常に美味しいラーメンで、至福の時間を過ごすことができた。ただ、そうであればこそ、どうしても「玉ねぎ」が載っていることの意義というものを考えてしまう。これが八王子系の文化といわれれば素直に頭を垂れるしかないが、必ずしもこの一杯になくてはならないものであるとは思えない。そもそも、八王子系というコンセプトが初めにありきで、このラーメンは誕生したのだろうか。とまれ、機会があれば、是非とも次は「楽観(赤)」を訪うことにしたい。

 それにしても、このお店の立地は分かりにくい。私の場合、錦町一丁目付近から高架下をくぐり、そこから左に坂を上ったので尚更。怪しげな看板が目を引く、カプセルホテルの一階にある。全く知らない人の眼には、怪しいお店に吸い込まれていく人間に見えたりするかもしれない。

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蓮實重彦『伯爵夫人』

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 図書館からの借用なので、一切身銭を切っておらず恐縮である。本作『伯爵夫人』は、「陥没地帯」「オペラ・オペラシオネル」に次ぐ3作目の小説である。「オペラ・オペラシオネル」が1994年12月に刊行されたことを考えると、概ね22年もの歳月を隔てたことになるが、この洗練され、高度に抽象化された小説を読むと、蓮實氏の実験的な作風は少しも色褪せていないと思わされる。色褪せていないどころか、よりプレシューに拍車がかかっており、エロスを描いていても全く猥雑でも猥褻でもなければ、熟練すればするほど、小説としての若々しさが顕在している事実が不思議でならない。

 話題になった三島賞受賞会見では、「散文のフィクションを研究している者にとってはいつでも書けるもの」「(情熱やパッションはなく)専ら知的な操作によるもの」などと述べていたが、まさしくこの抽象的な構築体は、知とエロスの激しいゆらぎのなかで「coincidentia oppositorum」を想起させつつも、外的な力に従おうとするヨットのように受動的である。近代的な主観主義とは無縁であり、想像力や物語性への押しつけがましい過度な期待というものもなく、美というものが外的な力学によって、超認識主観的に生起するものであると諒解されているからだろう。*1 時間系列とともに変化する事物の美を認め、その上でみずからの裡に世界が凝集する瞬間を待つということ――「小説は向こうからやってくる」「(小説を書く動機について)全くありません」というフレーズが激しく胸を搏つのは、その意味においてであろう。*2 「純粋な方程式の状態に達して、人間の空隙に対して代数ほどの厚みももたなくなった瞬間に、「文学」は克服される」といったのは、確かロラン・バルトであったが。

 結びで、「帝國・米英に宣戰を布告す」の文字が夕刊に踊るとあるが、これを単純に「1941年12月8日」に結びつけてしまうのは、このテクストの性格上、些か拙速である。「1941年12月8日」と断定された訳ではないため、いかに蓋然性が高いといえども、あくまでも推測の域を出ないからだ。ながい睡りから目ざめた後に、「ふと」この夕刊を一瞥した時、歴史上の一点が具体の事象をちらつかせながら立上ってきて、フィクションを暴力的に侵食しようとするという事態こそが問題ではないか。他にもいろいろとあるが、たとえば、白いコルネット姿の尼僧が描かれた赤いココア缶を「ドロステ(Droste)」と即座に断定してよいものかどうか。*3 真っ赤な陰毛を燃えあがらせる「蝶々夫人」とオーヴァーラップし、背後に「戦争」をちらつかせているのがこの尼僧のアイコンであると、誰が断定し、証明しえるだろうか。

 マンディアルグは、『O嬢の物語P.Réage, Histoire d'Oを称讃する評論で、「エロティックではなくミスティックな書物である」といった。澁澤龍彦は、「ミスティック」の真意について、「O嬢の魂の目ざめは、苦行の果てに神の愛を知った、中世の聖女の神秘的な法悦の体験にも比す」とした。(260) 肉体(ソーマ)という牢獄(セーマ)を乗り越えるという教義のもとで、O嬢をめぐる残虐極まりない異常な拷問が合理化されるのである。たとえば、『伯爵夫人』においても、白目剥いて涎を垂らしながらベッドに這い蹲ったり、失神しても何とか黒眼で遠くの空だけを見つめるように努める場面が出てくるが、余りにも清潔すぎないだろうか。「熟れたまんこ」や「M」の「erectio」が頻発するが、鼻につくくらいの卑猥さではあっても、顔を顰めるほどの戦慄というものはない。レアージュが描き出したような、「臀に烙印を押され、鉄環によって陰部を封鎖され、全身の毛髪を除去され、梟の羽毛の仮面を頭からかぶせられて、夜の舞踏会に鎖で引かれて行く」という惨たらしい一場面を想起するほどに、卑猥や屈辱のなかに深く沈潜してみせようという抑えきれない衝動や欲望が、蓮實氏にはなかったのだろうか。

*1:ちなみに、「濱尾だって帝大を目ざしている――本当は京都の美学に行きたかったんだが、冴えた若い講師が治安維持法であんなことになっちまったんで、仕方がないから東京に行ってやるんだとうそぶきながら」(18)とは、1937年11月、『土曜日』『世界文化』の反ファシズム的同人誌に参加していた美学者・中井正一治安維持法違反で検挙された事実を示唆している。

*2:「映画は一人称単数を主語にした言説とは異なるから観続けられる」と、嘗て蓮實が言ったのも、この意味においてである。一人称単数の野蛮さを自覚しているからこそ、別の機能によってテクストを推進させ、運動させねばならない。つまり、「映画的」な力学の蠢きによって構築された小説であるといえるだろう。

*3:余談だが、先日読了した黒井千次のエッセイでは、赤い大きな缶で、黄色いローブを纏ったアラビア人の白い髭の老人が立って珈琲を飲んでいる姿が描かれた缶が登場した。調べてみたところ、ヒルス製の珈琲缶であり、この老人の絵は「テイスター」と称されるトレードマークであるらしい。History – Hills Bros. Coffee | A Taste of San Francisco™