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西部邁氏の訃報について

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 先日、評論家の西部邁氏が多摩川で入水したという訃報を見て、驚いた。

 西部氏の著作には中学生の頃から触れていたが、更に個人的な思い出もある。大学に在籍していた頃、ゼミの授業に西部氏が講師として来られたことがあった。日本の核保有が講義のテーマだった。最後に質疑応答があったので、私は挙手して次のように質問した。

 「中国やインドなど核を保有している国は多いですが、なぜ北朝鮮が核を保有してはいけないのでしょうか」

 というのも当時、メディアでは北朝鮮独裁国家という図式の報道が過熱してきていると感じられたし北朝鮮側がなぜ核実験を繰り返すのかという根拠は全く議論されないままに)、中国、ロシアなどの核保有国が民主主義的であるという前提も揺らいできており、世界情勢のなかで危険な方向に向かいつつあると感じられたからだった。

 すると、西部氏からはこんな答えが返ってきた。

 「あなたのその発言は、99%は正しいが、後の1%が決定的に誤っている。それは、北朝鮮が危険な国家、アグレッシヴ(侵略的)であるということに尽きるでしょう」

 おもうに、99%が正しいが云々という独特の言い回しにはこういう真意があったのではないか。核保有論が封殺されている日本でそういった疑念や問題意識を持つのはよいが、アグレッシヴな事件、たとえば拉致事件があったばかりにもかかわらず、被害側の国民として北朝鮮の核保有を赦せるのか、と。要するに、「北朝鮮はなぜ核を保有してはいけないのか」という発言は理論的には誤りではなくとも、現実的判断として無自覚ではないか、ということではないかと個人的に推測した。

 それから数年後に『核武装論』講談社現代新書、2007年)が刊行され、すぐさま読んだのを憶えている。残念ながら手元に無く、記憶を辿るしかないが、北朝鮮に比べてアメリカを始めとする核保有国が莫大な量の原爆を保有している一方、NPT核兵器不拡散条約)の核軍縮等の条約について遵守できていないところもある。それに、ロシアや中国では民主主義であるがゆえに独裁制が生まれ、イラクの場合は民主化がコミューナリズムの引き金となったのだから、民主主義が安全たるいかなる根拠もない、と書かれていた。しかし、そういう危惧すべき現状があったとしても、北朝鮮は侵略行為を繰り返す国家であるというのが国際社会の常識であって、まさにその侵略行為、アグレッシヴな性格こそ、国際社会が警戒し全力で封殺すべき対象なのだ、と。この部分を拝読して、西部氏の発言の真意をやっと理解できたのだった。

 それにしても、ゼミナールやプライムニュース等の番組を拝見していても老いを感じることがなかっただけに、なぜ今、自らの命を絶ったのかということが不思議でならない。しかし、西部氏にはもともと自殺願望があったし、彼の思想的背景、死生観を考えれば必然だったとも思われる。改めて、西部氏による江藤淳の追悼文「自死は精神の自然である」を読むと、明晰な死生観の表れを感じることができ、感涙に咽んでしまう。以下、引用を列挙したい。

 江藤氏が自死を選ばれたことについて、それを「衝撃的」と評する意見が多い。しかし、思想の作品をその思想家の人生とを、区別してもよいが、分離してはならぬと固く思っている私の場合、江藤淳という先輩がこのような形の死に突き進んだことに、何の違和も覚えない。むしろ、かかる孤独な自裁は氏の思想がまぎれもなく要請するところであったろう、という思いが強くする。(97)

 私のいいたいのは、自死を求める心理の下部と存命を図る心理の上部とが氏にあって激しい摩擦を起こし、執筆における精神の不能感や薬剤摂取による身体の不快感がどのように進行したのか詳しいことは知らねども、ついに前者が、つまり心理の下部が、氏の心身を鷲摑みにした、ということである。なぜそう思うのか。私自身もそのような心理過程を、ごくゆるやかな速度においてではあるが、現に経験しているからである。(98) 

 いや、心理という言葉を遣うのは間違いかもしれない。その短い遺書に示唆されているように、心身が全き形骸へ向けて確実に近づいていく、それが自分の未来だと確信するとき、その不動の予期は自分の現在を錆びつかせる。生きながらにして錆びついているという自覚は途方もない虚無感をその人に抱懐させる。その虚無を追い払うべく自死を選んだ江藤氏にはその英知と勇気においてやはり並外れた人物であった、と私は思う。大仰に聞こえるのを恐れずにいえば、真から遠ざかって偽に赴く自分、善を離れて悪に親しむ自分、美を忘れて醜を受け入れる自分、そんな未来しか自分の生存に期待できないとなれば、それに死を差し向けるのが聡明にして廉直というものではないだろうか。私もそのような生死の形を選びたいと念願しているのである。(98)

 江藤氏の訃報に接して、私もまた「よいものをみせてもらいました」といいたい。真と言う科学的な基準、善という宗教的な基準そして美という芸術的な基準のすべてからはるかに遠いところにいる自分ではあるが、それでも、「よく生きるためによく死ぬ」ことはできるのだ。その可能性を江藤氏が示してくれたと私は思う。(99)

 ***

 きょう、久しぶりの休日に福田恆存『保守とは何か』(文春学藝ライブラリー、2013年)を読み返した。「私の保守主義観」でこういう文章があり、西部氏の自死との関連において考えさせられた。

 保守的な生き方、考へ方といふのは、主体である自己についても、すべてが見出されてゐるといふ観念をしりぞけ、自分の知らぬ自分といふものを尊重することなのだ。(183)

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摩川で入水し亡くなった

西部邁さん(78)が21日、東京都大田区多摩川で入水し亡くなった