Cashew books

本を貪るのは好物のカシューナッツを食べるのに似ている

吉田屋@大月

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 先日、山梨の富士吉田市へ訪れる機会があり、吉田屋の肉きんぴら月見を食べた。麺は田舎風の極太手打ちうどんで、茹でキャベツ、馬肉、きんぴら、生卵などが載っている。前々からこのような郷土料理が吉田にあることは知っていたが、味が想像しづらく実体が不明であったため、どんな味か気になっていた。

 注文してからすぐに運ばれてきた丼を見て、男らしいその豪快な面構えに驚いた。箸で麺を持ち上げてみると、見たこともないほどに太く、ねじれている。噛んでみると非常に弾力とコシがあり、何度も噛みしめているうちに顎が疲れてくる。それほどの強度なのに、噛めばかむほど小麦の味がしっかりと感じられてきて、噛んでいることが至福に思えてくる。あまりに太く弾力がある麺なので、普通のうどんを食べているような感覚でなくなり、手打ちされた太麺の美味しさというのを知った。

 両手で丼を持って汁を啜ってみると、濃い目の醤油ベースだった。熱々で非常に美味しく、その濃さに喉が渇くと思いながらも、抑えきれずに啜ってしまう。この濃い目の出汁に、馬肉、きんぴらや茹でキャベツが合う。馬肉も全く野性味を感じることがないし、細切りのきんぴらも一口大のキャベツも過度に主張することがない。あくまでも主役である手打ちうどんの美味しさを累乗的に引き立たせるためのものであり、必要不可欠な脇役なのだ。吉田のうどんにとっての馬肉・キャベツ・きんぴらは、桃太郎における猿・雉・犬のような存在なのかもしれない。

 そのようなことを考えながら、卵に箸を突き刺してみる。とろっと流れて出てくる卵が汁に沈んでいき、麺を箸で持ち上げると卵が絡みつく。口に運んだ瞬間、鉄鎚で後頭部を叩かれたような衝撃が走った。先ほどまでの食の世界観が崩れ落ちたのである、これは確かに一種のコペルニクス的転回に違いなかった。それまで目の前で起きていた男たちによる狩猟のような殺伐とした世界の中に、感傷的な光が差したとでもいおうか。唐辛子の辛いすりだねが常備されていたが、これを少し加えてみるとピリッと刺激がきて美味しく、また違う味の印象になった。

 その日は夜になっても何も食べなかったほど、腹持ちが凄かった。周りにお代わりしていた人もいたことを考えると、量はそんなに多いというほどでもない気がするが、とにかくしばらくはもう何も食べる気になれなかった。おそらく、それは歯応えのせいだろう。味わったことのない弾力とコシのあるうどんの歯ごたえ、それに次ぐ馬肉のほどよい硬さときんぴらとキャベツの歯ごたえも合わさり、様々な歯ごたえを味わうことができる。私は、歯ごたえというのが旨さを追求するうえで重要なファクターであることを忘れていたことを認め、反省せざるを得なかった。吉田のうどんの最たる魅力、それはおそらく歯ごたえに他ならない。

 富士吉田の織物業が隆盛を極めた昭和初期、織物の機械を動かす女性の手を止めないように、また織物を扱う女性の手が荒れないように、男性が女性の代わりに昼にうどんを練る習慣ができたという。男たちは腹持ちがよくなるように食塩を加え、力任せにうどんを練ったことで、これほどまでに弾力とコシのあるうどんが誕生したという。この歯ごたえのもとに女性を支えるべく男たちが料理に従事したという慣習があったとすれば、運ばれてきた丼を見た瞬間、一種の野性味や豪快さといった第一印象を受けたのも、あながち間違いでなかったのかもしれない。豪快さについて考えることが歴史の深さを知ることに繋がるとは思わなかった。