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万有回

主に趣味の読書について綴っていければと思います。「昭和の残り滓」といわれる世代。

震災から6年目を迎えて

 あの震災から6年目を迎える。土曜日だけれど、家にいられるような心境ではないと思い、ボランティアの手伝いをさせていただいた。非常に貴重な経験であったが、震災の翌年に参加した時のボランティアの過酷さと較べると、あっという間に時間が過ぎてしまったように思う。

 震災の翌年の3月11日、多くの方が亡くなった某震災遺構の解体に伴い、大量の白い土嚢袋に泥のこびりついたがれき、ガラスの破片などを分別し、トラックに積んで運んだ。3階での作業だったため、土嚢袋が4袋ほど一杯になると、土嚢袋を担いで何度も階段を駆け下りた。

 土嚢袋に詰めているあいだは無心で、ひたすら作業に集中した。力を入れた両腕に圧し掛かる土嚢袋のずっしりとした重さ、その実感の確実さこそに支えられた。作業に没頭していると、次第に意識が明晰になってくるものの、状況を客観的に俯瞰する心の余裕まではなかったと思う。

 作業が一とおり終わったのは日が暮れかけた頃で、一人ずつ外で献花させていただくことになった。すべての作業員の纏っている作業服が、誰しも同じように泥まみれになっていた。花を手向け祈りを捧げた時、突然嗚咽する者もいた。当時、それぞれに圧し掛かっていた現実の重圧は、今では考えられないほどだった。

 手を合わせているあいだ、亡くなった方々の霊魂に想いを馳せた。震災は戦争とは異なり、人災ではなく自然災害であり、戦争で敵に殺戮された霊魂ではないということが幾分か救いであるように感じられた。どの霊魂に対しても、どこにも人間の憎悪は存在しておらず、何にも遮られることのない純粋な意味での祈りに思えた。いっぽう、戦争による霊魂の場合、人間に輪廻転生という謎めいた思想を発明させてしまうほどに悍ましいといえる。殺戮という行為がこの上なく悍ましく、人間に憎悪と恐怖を与えるからこそ、大昔の人間は法や道徳などというものをあえて発明せざるを得なかったのかもしれない、と思った。(逆にいえば、法や道徳というものを透かしてみると、人間の醜く卑しい姿がぼんやりと見えてくる気もするのである。)憎悪や嫉妬などの衝動が存在しない世界であれば、そもそも法や戒律などという煩わしいものを創る必要がないからである。

 帰り際、ある遺族の方から缶ジュースの差し入れを頂戴した。それをバスに揺られながら飲んだ時、一瞬、眠気と疲弊に襲われてくらっとしたのだった。朝から夕方ごろまで走り回っても少しも疲弊しなかったのに、甘い飲み物を押し込んだ途端におそらく脳が日常のモードに切り替わって、動物的肉体へ堕落してしまったのだろうか。私だけに限ったことかもしれないが、ここまで人間の脳はフィジカルに従順なのかと思うと無性に恥ずかしくなり、居た堪れなくなった。この卑小な存在はついにシーシュポスにもなりきれなかった、とすら思った。

 その頃、私が尊崇している高橋和巳が、最後の著作『人間について』(新潮社、1972年)で次のように書いていた。「その殆ど徒労といえる労作から、後年になって、その意味が自覚される何事かを学んだのだった。国家の運命、戦争に勝つとか負けるとかいったこととは別な、大事なことが、この世の中にあって、そしてそれは余所目には徒労とみえる作業でしかない。しかも、それは恐らくは永遠に続く」(111) これは戦争末期、四国の山間部のダムが決潰してしまい、農村動員として駆り出された高橋が、泥に埋もれ一面砂地と化した田畑の表層をスコップと鍬で掬わなければならなかった時の回想なのだが、何気なく単純に見えるこの文章に救われたところがあった。

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  帰り際、予約していた「新潮」(2017年4月号)を受け取りに書店へ。又吉直樹の長篇「劇場」が載ると聞いて品薄になると思い、先月末に予約していた。

 「劇場」は、無名の劇団を率いている劇作家の主人公が、売れずに憂鬱とした日々を過ごしていたところ、服飾関係の大学に通う沙希という女性と出会い恋愛を重ねていく話であるが、最も印象深かったのは、ここで描かれる沙希という女性の素晴らしい人間性である。

 主人公である永田が沙希と出会うくだりで、「靴、同じやな」と小さな声で呟くが、沙希は「違いますよ」と否定する。知らない人に話しかけられた沙希が同じ靴なのに嘘をついたのか、それとも、沙希の素直な性格から考えれば、実際は違う靴を履いており、永田の方が会話のきっかけとして嘘をついたのかもしれない。しかし、そもそも「靴」という部分を認める以前に、この女性のただならぬ存在は気配としてテクストに漂っており、その存在の気配になぜか永田の感情は爆発しそうになっている。

 永田は沙希に身勝手な言動をし、都合の良いように振り回しているように見える。それでも、沙希は明るく優しく、寛容な態度で接し、まるで無償の愛を体現する聖母のようである。永田がどんなに酷いことや非礼を行ったとしても、彼のためにひたすら尽くし、聖母のように赦す。拒絶と受容は紙一重なのである。

 又吉が描こうとする女性像は、いつも無償の愛を体現しているように思える。前作『火花』で描かれる真樹についても同じである。私は『火花』という作品を読み終わった後、この女性についての恋愛を更に深く掘り下げた続編が読みたいと切に思った。そのくらい、又吉が描く女性というのは完璧で美しく、多くの男性にとっての憧れであると同時に愛すべき対象であり、文学史を彩る文学作品の多くに描かれる女性像と較べても引けを取らないのではないかとすら思える。

 中盤、夜遅くに帰った永田が沙希と手を繋ぐくだりがあるが、「こんな時間までどこに行ってたの?」から「本当によく生きて来れたよね」までの会話は無駄がなく、純粋に訴えかけてくるので、まさに圧巻という他ない。つまり、いっけん無意味な会話ではあるけれど、通常の言葉では掬い取ることのできないふたりの関係を見事に描き切っている。だからこそ、読者は安全圏から「意味を判定する」ことができなくなり、会話が無意味であればあるほど、胸を震わすことを余儀なくされる。「梨があるところが一番安全です」という言葉には、目を潤ませながら吹きだしてしまった。矢野氏が「恋愛のレイヤー」ではなく更に深い「運命のレイヤー」まで到達したと述べていたが、それはこのいっけん無意味な会話の有機的な拡がりによるのではないかと思う。

 高度な文学性を担保しつつ、世間に膾炙するような文学作品を書くのは容易ではない。あくまでも私の考えであるが、哲学が普遍性を志向するのに対し、文学は社交性というフィールドへ船出すべきものと考えている。社会という審級に対しては、おそらくイギリス経験論くらいしか接近したことはないだろう。もし、小説の担う役割がそこにあるとすると仮定すれば、どうしてもこの小説を読まずにはいられなかった。