Cashew books

本を貪るのは好物のカシューナッツを食べるのに似ている

月の輪@紫波

 

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 肌寒くなってきたのに、なぜか季節外れのジェラートを食べることに。酒粕×クリームチーズが半々ずつ、しかも伝統ある酒造が作った商品とあってかなり濃厚。残念ながら、寒すぎたのもあって最後まで食べきることができなかった。

 おもえば、今夏は全くアイス食べなかったので、アイス自体食べたのが1年半ぶりくらいかもしれない。

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 『反劇的人間』という本でドナルド・キーン安部公房が対談しているが、「美しい日本語とは何か」(第4章「文学の普遍性」)について議論しているくだりがある。

 ドナルド・キーンは言語表現としての正確さを追求すると中性的になる恐れがあると危惧するのにたいして、安部公房は自然科学的な正確さの追求ではなく、固有性にとっての正確さ、感覚的な正確さの追求が重要なのだから、必ずしも中性的ということではないという。(日本語の乱れ、日本語の美しさを過度に主張する人々の書くものが全く良いと思えないという安部の批判は、模範的・教科書的な書き方が自然科学的な正確さでしかなく、中性的な軸に偏ってしまうこと、必然的にアポリアに陥ってしまうことへの無自覚さへの批判でもあるかもしれない。)

 たとえば、ガラスのコップは二度と同じように光らないので、大衆作家のように「ガラスのコップがキラッと光った」などと書くべきではない。「非常に美しく光った」などと書くと、言語それ自体が前へ出すぎるので中性的で駄目になってしまい、「美しい」という主観の内容を詳述すればよいかといえば、それも総体的すぎて駄目になってしまう。それでは、固有性、一回性の美しさをどう表現すべきなのか。

 安部の理論を敷衍すれば、「その書き手にしかできない、オリジナリティのある、ただひとつの言語表現を探すしかない」ということになる。これは普遍的な言語表現の追求なのだから、越境性があるというか、日本語であっても英語であっても変わりないことであって、日本語という特殊性の制約を過度に気にする必要もない。たとえば、ピアニストがピアノという楽器に熟練していて、このくらい指と鍵盤の距離があってこのくらいの速度で弾けばこういう音が響く、と弾く前から感覚的に分かり、かつそれを確実に実現できるように、書き手も日本語というものを知悉し、熟練していなければならない。

 それから興味深かったのは、オーバーな身振りで指を誇張させるタイプのピアニストよりも、切手か何かを細々と分類するような恰好で、静かに無感情にピアノを奏でるピアニストのほうが好きだと安部が話していること。物を書くときにも、分かりやすい言葉で、できるだけ漢字を少なくして、言葉の色合いなどを常に抑制しながら、複雑な言葉との調整を無意識で行うという。私も幼い頃からピアノに慣れ親しんできたけれど、音色だけではなく音のかたちや輪郭といったもの、前後への影響であるとか、どういうふうな破綻をもたらすかということも含めて無意識で考えていて、それが少しでも意識に上ってくると演奏は成り立たなくなってしまうというジレンマがあったので、安部公房の発言がしっくりきたのだった。