Cashew books

本を貪るのは好物のカシューナッツを食べるのに似ている

中勘助『蜜蜂・余生』

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 休日にビアガーデンで頼んだ、白身魚フライ付きのカレー。カレーと白身魚のフライの組み合わせは初。

 白身魚にスプーンを入れると衣はサクッとして、身はふっくらとして柔らかく、ほんのりと甘味も感じる。肉よりも上品で、海の香りも広がるので、個人的に肉より魚のほうが好きかもしれない。カレーは思ったよりスパイシーで液状感が強く、スープカレー感覚でさらっと食べられる。できれば、夏の暑い日に食べたかった。

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 中勘助「蜜蜂」(『蜜蜂・余生』)を軽い気持ちで読み進めたが、途中から胸が詰まる思い。ことに、日記の終盤に差し掛かると、一つひとつの鋭い箴言が多層的な記憶のレイヤーに重なって美しく響き合い、姉を亡くした悲哀といったものが痛いほど伝わってくる。

 解説で生島遼一が書いているように、勘助が≪我執≫のつよい性格だったというのは同意見である。兄についての回想で、「広い意味でのひとの好意を渇するごとくに望みながら自分が真にひとを愛することができないゆえにひとの好意をもまた素直にうけいれることができず、あのような状態になってさえも終に我をすててひとに頼り、ひとの親切にすがることをし得ずに一生自分の因果な性質に苦しめられとおして――この点母も全く同じだった」(141)とあるが、これは兄や母に対するばかりでなく、作家としての勘助自身にも同様に当てはまるのではないかと思われる。

 その人並み外れた我執の激しさからうみだされたのが、9月3日の詩だろう。衒いのない素朴な詩であるがゆえに、他の日記の詩と較べていっそう悲しく、切実に訴えかける詩となっている。さらに、その後の9月7日で示されるエピソード、この些細な内容が激しく胸を打つ。

 ある日、私が茶の間で食事をすませてからいつものとおり病室へいって枕もとに坐ったときにいくらか恨みがましく この頃はなかなかきてくれなくなった といった。そういわれて私もはっと気がつき、姉は湯たんぽをいれて床のなかにいるのだからわかるまいが火の気のない病室の冷たさが痩せた自分にこたえるので、暖い茶の間に坐ってる時間が知らずしらず長くなったのだと謝罪的に弁明した。姉は「あーそうか」と胸にこたえたらしく、また自分で自分に納得したらしくいったが、その後は何につけてもひと言も不満をいわず、用事も出来るだけ頼まず、あっちへいっててもいい とまでいった。(139)

 素朴なエピソードのようでありながら、姉の悲しみといったものを見事に書き表している。病的なまでに研ぎ澄まされた神経からしか達成できない見地と思われるし、どういう気持ちでこの日記を綴ったかと問いたくもなる。研ぎ澄まされた言葉も、病的であることも、すべてが「姉の悲しみ」という核心に回収され、収斂していく。

 この悲しみといったものは、何によって生み出されているのか。言葉の美しさに由来しているだろうけれども、単に言葉からだけではないことは明らかである。

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