Cashew books

本を貪るのは好物のカシューナッツを食べるのに似ている

飛島のいか塩辛

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 塩辛い、というのが飛島の塩辛を初めて食した時の第一印象。あまりの塩辛さに、酸味のある梅干を食べた時のように口が窄んでしまった。何だこれは、世の中にこんなに塩辛い食べ物が存在するのか、という驚きで呆然とし、箸が進まなかった。

 ある日、絹ごし豆腐を食べていて、醤油の代わりに塩辛の魚醤を数滴垂らしてみた。濃厚な魚醤の旨味がまろやかな豆腐と合い、とても美味しかった。通常の豆腐より若干濃厚で、クリームチーズのような食感の豆腐だったので、魚醤のコクと上手く合ったのかもしれない。ほかにも、野菜炒めの調味料としても抜群で、火を通すことによって魚醤特有の生臭さが消え、芳醇な香りがひろがる。

 気付いた頃には、すっかり飛島の塩辛の虜となっていた。飛び上がるくらいに塩分が高く不健康だと思いながらも、どうしてもこの一切れが止められない。頭で制御しようと思っても、塩辛い痺れを求めて、手が勝手に動いてしまう。まるで塩の塊であるかのように塩辛くて堪らない、こういう食品から濃厚な旨味の世界が展開していくことが不思議でならなかった。

 飛島の塩辛は、一般的な調理法とは異なる。一般的な塩辛のようにイカを刻んで肝と和えるのではなく、まず肝を塩漬け・醗酵させて魚醤を作り、そこに塩漬けにしたイカ(塩抜きしたもの)を浸け込むのである。イカの身ではなく内臓を醗酵させて抽出する魚醤といえば、能登半島で作られる「いかいしり」(いしりとは、魚汁(いしる)の訛った呼び方といわれる)がよく知られているが、そこまで強烈な内臓系の旨味を感じるわけではない。

 身にしても汁にしても、一杯のイカを余すところなく調理し尽すことによって生まれる。そのイカが塩漬けにされて旨味が熟成するタイミングと、肝を醗酵させ魚醤が出来る過程、一連の製造工程において全く無駄がないのである。無駄を排すということが調理の真髄ではなかっただろうか。さらに、一般的に市販されている瓶ビールを再利用して販売されるというところも、ユーモアに溢れている。

 信じられないことだが、イカを調理する際、内臓はごみへ捨ててしまう主婦も多いと聞く。たとえば、イカの刺身を作る上で、新鮮な身以外は何もかも不必要なのだ。イカだけでなく、他の魚あるいは肉も同じことで、重要なのは身であり、それ以外の部分は「食べる」という行為から切り離されている。だいたい、魚屋には刺身用の身が陳列され、肉屋には差障りのない部位のみが並び、それを買ってきて、「火で焼く」という最も単純かつ原始的な調理法を未だに繰り返している人間の在りようというものに想いを馳せると、時間の推移とともに進化どころか退化しているのではないかとすら思えてくる。

 それに、瓶ビールを再利用するところも、何でも斬新なパッケージで商品化してしまう現代の風潮と逆行していて面白い。そもそもパッケージなど単に人を引き寄せるための手段でしかないのだから、外観ではなく商品の中身に投資すべきなのだ。瓶ビールという前近代的な発想には、「商品開発」という一連のプロセスが必然的に陥ってしまうようないかなる卑俗さもない。孤島に流れる時間がゆるやかであるように、資本主義的な人間のこすからさとは無縁でありつづける。

 現在、だし醤油というしょうゆ加工品が席巻しているが、一方で醤油の消費量は年々低下しているという。大豆で出来る醤油の大量生産により魚醤が駆逐された、それと同じ道を辿るのだろうかと思えてならない。そもそも、魚醤と醤油は動物性か植物性かの違いはあれども、だし醤油というものは醤油に似せて作られた奇怪なものでしかない。それに、旨味調味料であるたんぱく加水分解物がクロロプロパノール類(3-MCPDという発がん性のある物質を生成すると従来からいわれてきたのだから、愈々、利便性が食の安全を脅かす事態になっていることも頭の片隅に置いたほうがよさそうである。