Cashew books

本を貪るのは好物のカシューナッツを食べるのに似ている

蓮實重彦『伯爵夫人』

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 図書館からの借用なので、一切身銭を切っておらず恐縮である。本作『伯爵夫人』は、「陥没地帯」「オペラ・オペラシオネル」に次ぐ3作目の小説である。「オペラ・オペラシオネル」が1994年12月に刊行されたことを考えると、概ね22年もの歳月を隔てたことになるが、この洗練され、高度に抽象化された小説を読むと、蓮實氏の実験的な作風は少しも色褪せていないと思わされる。色褪せていないどころか、よりプレシューに拍車がかかっており、エロスを描いていても全く猥雑でも猥褻でもなければ、熟練すればするほど、小説としての若々しさが顕在している事実が不思議でならない。

 話題になった三島賞受賞会見では、「散文のフィクションを研究している者にとってはいつでも書けるもの」「(情熱やパッションはなく)専ら知的な操作によるもの」などと述べていたが、まさしくこの抽象的な構築体は、知とエロスの激しいゆらぎのなかで「coincidentia oppositorum」を想起させつつも、外的な力に従おうとするヨットのように受動的である。近代的な主観主義とは無縁であり、想像力や物語性への押しつけがましい過度な期待というものもなく、美というものが外的な力学によって、超認識主観的に生起するものであると諒解されているからだろう。*1 時間系列とともに変化する事物の美を認め、その上でみずからの裡に世界が凝集する瞬間を待つということ――「小説は向こうからやってくる」「(小説を書く動機について)全くありません」というフレーズが激しく胸を搏つのは、その意味においてであろう。*2 「純粋な方程式の状態に達して、人間の空隙に対して代数ほどの厚みももたなくなった瞬間に、「文学」は克服される」といったのは、確かロラン・バルトであったが。

 結びで、「帝國・米英に宣戰を布告す」の文字が夕刊に踊るとあるが、これを単純に「1941年12月8日」に結びつけてしまうのは、このテクストの性格上、些か拙速である。「1941年12月8日」と断定された訳ではないため、いかに蓋然性が高いといえども、あくまでも推測の域を出ないからだ。ながい睡りから目ざめた後に、「ふと」この夕刊を一瞥した時、歴史上の一点が具体の事象をちらつかせながら立上ってきて、フィクションを暴力的に侵食しようとするという事態こそが問題ではないか。他にもいろいろとあるが、たとえば、白いコルネット姿の尼僧が描かれた赤いココア缶を「ドロステ(Droste)」と即座に断定してよいものかどうか。*3 真っ赤な陰毛を燃えあがらせる「蝶々夫人」とオーヴァーラップし、背後に「戦争」をちらつかせているのがこの尼僧のアイコンであると、誰が断定し、証明しえるだろうか。

 マンディアルグは、『O嬢の物語P.Réage, Histoire d'Oを称讃する評論で、「エロティックではなくミスティックな書物である」といった。澁澤龍彦は、「ミスティック」の真意について、「O嬢の魂の目ざめは、苦行の果てに神の愛を知った、中世の聖女の神秘的な法悦の体験にも比す」とした。(260) 肉体(ソーマ)という牢獄(セーマ)を乗り越えるという教義のもとで、O嬢をめぐる残虐極まりない異常な拷問が合理化されるのである。たとえば、『伯爵夫人』においても、白目剥いて涎を垂らしながらベッドに這い蹲ったり、失神しても何とか黒眼で遠くの空だけを見つめるように努める場面が出てくるが、余りにも清潔すぎないだろうか。「熟れたまんこ」や「M」の「erectio」が頻発するが、鼻につくくらいの卑猥さではあっても、顔を顰めるほどの戦慄というものはない。レアージュが描き出したような、「臀に烙印を押され、鉄環によって陰部を封鎖され、全身の毛髪を除去され、梟の羽毛の仮面を頭からかぶせられて、夜の舞踏会に鎖で引かれて行く」という惨たらしい一場面を想起するほどに、卑猥や屈辱のなかに深く沈潜してみせようという抑えきれない衝動や欲望が、蓮實氏にはなかったのだろうか。

*1:ちなみに、「濱尾だって帝大を目ざしている――本当は京都の美学に行きたかったんだが、冴えた若い講師が治安維持法であんなことになっちまったんで、仕方がないから東京に行ってやるんだとうそぶきながら」(18)とは、1937年11月、『土曜日』『世界文化』の反ファシズム的同人誌に参加していた美学者・中井正一治安維持法違反で検挙された事実を示唆している。

*2:「映画は一人称単数を主語にした言説とは異なるから観続けられる」と、嘗て蓮實が言ったのも、この意味においてである。一人称単数の野蛮さを自覚しているからこそ、別の機能によってテクストを推進させ、運動させねばならない。つまり、「映画的」な力学の蠢きによって構築された小説であるといえるだろう。

*3:余談だが、先日読了した黒井千次のエッセイでは、赤い大きな缶で、黄色いローブを纏ったアラビア人の白い髭の老人が立って珈琲を飲んでいる姿が描かれた缶が登場した。調べてみたところ、ヒルス製の珈琲缶であり、この老人の絵は「テイスター」と称されるトレードマークであるらしい。History – Hills Bros. Coffee | A Taste of San Francisco™