Cashew books

本を貪るのは好物のカシューナッツを食べるのに似ている

風雨同舟

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 新型コロナウイルスが感染拡大しているが、岩手県だけは奇跡的に感染者が未だ確認されていない。とはいえ、県境を封鎖している訳でもないので、他県からの移動が多いこの時期に感染が拡大していくことは確実で、ほぼ避けられない、と考えるべきだろう。況や、岩手は感染者が確認されていないからサッカーの試合を行おうなどというのは言語道断であり、正気とは思えない。

 京大の山中教授も、新たにHPを作成して情報発信してくださっている。宮沢准教授もそうだが、あえて難しい用語を使わずに、分かりやすい平易な言葉遣いをしているのは高齢者や若者など幅広い年齢層に届けたいという想いからだろう。

山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信

 宮沢准教授も言っているように、「自分自身が(無症状で)今感染している」という意識を持って行動すること、この意識改革が重要である。

 

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 この頃土日出勤が続いており、久々の休みだったので、部屋にこもって『失われた時を求めて』(鈴木道彦訳、集英社、1992年)を読み返した。学生時代から明治・大正期の古道具を好きで蒐集していて、椅子の座るところが古びて裂けてしまうという経験をしたことがあったが、この小説でも、肘掛け椅子に座ったら重みでめりめりと壊れてしまった、という祖母の逸話が出てきて、それに似ていたことを思い出した。ここの語りが気に入っていた。上手く説明できないものの、こういった古めかしい趣味性は、いろいろな記憶を辿っていくことで、小説を色褪せない独特のベールで包み込んでいるような感覚、通俗的な懐古趣味に陥るというのとは別の方向へ移行していく気がする。

 大学生の時に友人と寂れた遊園地へ行く機会があり、いかにも昭和の寂れた遊園地で、乗り物の手すりも錆びて朽ちかけていたが、何ともいえない哀愁や風情、独特の雰囲気みたいなものを与えられて、その時の思い出は割と忘れられないものになった。電車の電子音のメロディー、踏切の音がずっとしていたこと、その時の服装、自動販売機、携帯などの流行とどこか乖離している、そぐわないところがあったからか、記憶の変なところに滑りこんでいく感覚、不思議な雰囲気があった。

 ずっと不思議なのは、プルーストは人物を直感的に捉えるときに、一瞬にして妄想を働かせ、認識の深いところに入り込んでしまう、こういう直感力とでもいうべき才能は凄まじい。本当に同性愛者なのか、むしろ両性ではないかと思いたくもなる。プルーストがしているのは「人間観察」とかいうものではなくて、つまり「観察」などはなからしておらず、非常に直感的であるように思う。