Cashew books

本を貪るのは好物のカシューナッツを食べるのに似ている

理解する・認識するとは

 年度末であわただしく、てんてこ舞い状態。日曜の夜、『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』の映画を観た。夜にもかかわらず、年配の方々や、若い女性などの姿が多く見られたのが意外だった。(東出某がナレーションしてる影響?)

 批判めいたことは書きたくないが、ドキュメンタリー映画として放映するほどの内容に感じられなかった。伝説、とは誇大広告もいいところで、テレビの教養枠で一度流せば良い程度ではないだろうか。討論会後に興味深かったという旨の発言を三島はしたそうだが、それ以上でも以下でもなく、内容も観念的な議論の応酬に終始していただけで特に建設的なシーンは見当たらなかった。小説のレシやロマン、サルトルのイマージュのくだりなども、結局本気で互いの思想を突き詰めるということはなく、ゆるい雰囲気でどこか脱力していて、ポーズとしての議論に過ぎなかったようにおもう。

 ただ、芥氏が「言葉が力を持った時代の最後」と言ったことが、三島の「言霊」論への応答とも感じられて、互いの主張は折り合うことはないにせよ、未だに屈折したままのかたちであれ紛うことなく(言葉の力によって)そこに存在している、という印象を受けた。

(さきに批判したのは、その言葉に対して映像の側から肉薄する事態はなんら起こらなかったように感じた、ということ。それに加えて、ドキュメンタリー化することが三島にとっての一回性に賭す潔さから遠ざかってしまうという皮肉。)

 

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 コロナの蔓延、嘘の情報に翻弄される人々……情報の正しさやメディア・リテラシーが問題になるが、というよりもそれ以前に「物事を理解する」ということはどういうことなのか、と問いたい。簡単に「理解する」というが、何かを理解し認識しようとする時点で、例外なく逆説的に理解しえない・認識しえないという事実が含まれる。たとえば、マウスの底、パソコンの裏側が見えないのにマウスやパソコンを想像することは、見えない部分のすべてを見ないということであり、見えないことによって見るということを了承することでもある。その事実は、理解しえた・認識しえたという思い込みとともに現前化する。コロナウイルスの顕微鏡写真にしても、実際に調査した人間にとっては事実かもしれないが、我々にとっては少なくとも事実とはならず、その翳にすぎない。錯覚を事実として捉える装置であるメディアを媒介にして、純粋な事実ではない事実を押し付けられている。そうして我々が情報として事実ではない事実を押し付けられて知ることの中には、実際に顕微鏡で見た研究員の恐怖や焦燥などは存在しない。

 ウイルスは不意にやってくるのではなく、周到な計画を経て人の身体に住み着くものだとしても、もはや感染源の特定すら難航している。ついさっきまで健康だった身体が、数時間後にコロナウイルスの病原菌に侵される、という事態が突然起こったように見える。実際には突然ということはありえないが、そのように見てしまう。「さっきまで健康だった」ということは事実なのかどうか怪しくなり、そもそも健康とはどういうことか、となる。そもそも、感染源を特定して情報を得ることに何のメリットがあるのかという気がしないでもないが、人間の理解・認識の在り方が問い直されるべきではないのか、と思った。

 それに伴って、人混みなどの密を避けるように政府はいうが、自己が他者との係わりを絶って希薄化するとどうなるのか。他者という存在を思い浮かべることができなくなり、自己にとっての言葉が氾濫するが、からっぽの言葉だけを反芻して空回りするだけで虚しくなるのではないだろうか。言霊信仰とは、いわば砂を噛むように虚しくなる、死にたくなることを受け容れることでもあるのではないか。三島は相当の覚悟で以て自決したが、言霊信仰の両面性というものがあったような気が私にはしてならない。

 コロナウイルスにおける認識の在り方を問うということは結局、言葉の在り方を問うことにも似ている。言葉の多くは死滅して、というよりも言葉の観念自体が社会において死滅してしまったがために、読書という行為によって形骸化した死語を掘り起こすという暴挙に出てみたりもするが、ものと言葉を繋ぎとめる観念がいかにして死滅したかの淵源を辿っていくことなどできない。言葉を探究しようとすることは美しいかもしれないが、言葉はすべて自己のものではなく、他の人のお下がりという虚しい事実に突き当たる。事物側からの叛乱により、遠ざけられた位置に瀕しているということ、言霊は希求すればするほど遠ざかっていくものでもある、というジレンマをおそらく三島は分かっていただろうし、彼が懊悩したのは思想的なものではなく、言葉の力の衰退だったのかもしれない。