Cashew books

本を貪るのは好物のカシューナッツを食べるのに似ている

ポメラ遊び

 数年前からポメラで短い小説のようなものを書き溜めている。どこにもないようなものを書いている。(散文、とすらいわないのかもしれない。前衛、すらもとおりこしてこれは何だろうかという)何か応募するとかいう目的もなく淡々と、、、もうだいぶ前、高校生の時に応募したのが最後だった。クンデラトゥルニエをよめば刺激を受け、ロメールの映画をみると触発されたりもする。ただのフランスかぶれ。(そういうフランスかぶれの人たちは比較的苦手だったのに、自分がそうなっていることに気付く)

 サルトルの影響だろうか、事物と人間との相関について考えてばかりいる。こうしてポメラを触ったり、Suicaで電車に乗ったり、カードで買い物をする。尋常じゃない数でものと触れ合っている。こういう尋常じゃない数の触れ合いが、何の障害もなく行われている。何の障害もなければ、何の発展もない。知識の体系に収まっているからである。

 たとえば改札にしても信号にしても、移動という目的のツールにすぎず、それがある一定の幅や高さを有する存在とは捉えられない。効率性の名の下に、ある決まったかたちでしか<もの>を見ないように訓練されてきたからだ。むろん安定しているかたちでは、かたちの揺らぎは起こり得ない。<もの>が揺らぐことなんかどうでもいいと思っている、<もの>が自分の側へ叛乱をもたらすことが怖いのだろうか。<世界>の側から相対的に人間が竹箆返しをくらったとき、われわれはどうなるのかという率直な疑問。「家具つき人間」ベンヤミンの本に出てきた言葉)に成り下がるのだろうか。

 昨今小説を読んでも面白く思えないのは、事物を対象のレベルから意識のレベルへと移行させたとしても、事物ではなく人間の言葉でしかないからである。結局、一人称としての私の意識の延長にすぎないのだ、という諦念。<もの>のかたちは、人間の意識の流れとは関係のないところで不意に出現してくるのではないだろうか。外部としての全き他者というか、エイリアンとして出現してくるものではないか。

 人間をとことん物質のように描くにはどうしたらよいか、事物を人間らしく意識化するにはどうしたらよいか、ということが目下のテーマである。要は、人間を追放したいのかもしれない。かんがえてみると、、、「私」が主語の小説なんか一度も書いたことがないなぁ、と嘆息する。世の中にあふれているのは、殆どが「私」を主体としたものばかりだ。「私」はたとえば、機械や電柱ではいけないんだろうか。事物の囲む中心には、常に人間が存在していなければいけないんだろうか。