万有回

主に趣味の読書について綴っていければと思います。「昭和の残り滓」といわれる世代。

失敗作であるはずの梅酒

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 梅酒は毎年浸けているが、2年前にブランデーで浸ける際、氷砂糖の配分を間違えてしまったことがあった。だから、いつものラベルも貼らずに、「失敗作」という付箋を巻き付けておいた。

 だが、その梅酒を恐るおそる味見してみたら、意外と美味しい。もしかしたら、他の年に作ったものより美味しいかもしれない。お湯割りにすることもあれば、禁断のビール割りで愉しんだりもするが、やはりそのまま飲むのが一番。

 この頃、仕事のことで胃に穴が開いたような気分で、まったく食欲がなかった。2日間クラッカーとバナナしか食べていなかった。主に減塩のクラッカー(バター)ばかりつまむ日々だが、それではいけないと思い、昨日は水餃子を作った。葉野菜と挽肉と搾菜を刻み茹でた水餃子を黒酢のたれにつけて食べたが、その時にビール割の梅酒を呑んだら、珍しくひさしぶりに食欲が恢復してきた気がした。なんだか嬉しくなって、頂き物のさんまを焼いたり、クレソンのサラダ(レモン、アルペンザルツ)まで作って食べてしまった。

 ときおり、究極にシンプルなものを食べたいと思うことがある。たとえば、パスタやうどんを茹でているとき、具は何も要らないと思うことがある。すごく単純でシンプル、けれども奥の深いものが食べたいという願望。

 シンプルということを自問自答するとき、ヴァレリーの「コローをめぐって」という評論に、「至高の芸術家といえども大理石そのものが宿している以上の着想を抱くことはない」(たしか?)というミケランジェロの言葉が援用されていたことを思い出す。芸術と自然の相関を念頭に置いたものだが、この言葉が好きだ。本当の料理人であれば、調理法に卓越するがゆえに、その調理法いっさいを棄却する、いわば「脱構築」しなければいけないときも到来するのかもしれない。

 さんまを美味しく食べるのに、美味しいさんまと美味しい塩とグリルだけがあればいいのではないか、それ以外のどんな具材も調理法も要らないのではないか、などと思うことがある。パスタとトマトソースも同じことだけれど、そういうことをたまに考えている。