万有回

主に趣味の読書について綴っていければと思います。「昭和の残り滓」といわれる世代。

ピロシキの宇宙

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 サンクトペテルブルクから帰国した友人が、本場式に拵えた手づくりのピロシキを持ってきてくれた。僕の方も、作り置きしていたボルシチ風の煮込み物だとか、イチジクやレーズンなどをラム酒で浸けてアイスクリームを作ったものに、アーモンドスライスを薄く水あめで伸ばしたヌガーを添えて出した。

 はじめてボルシチという料理に挑戦したのは、中学生に入った頃だった。といっても、冷蔵庫にあったシチュー用の豚肉を使った簡単なもので、ビーツもサワークリームもない、ボルシチ擬きでしかなかったけれど。その時の思い出というものが未だ身体のどこかに残っていた。今回は、ビーツとトマトピューレを使って、肉団子にもディルなどのハーブを練り込んでみて、律儀にサワークリームを添えることも忘れなかった。

 友人が作ってくれたピロシキも、よくある日本式の春雨の入ったそれとは程遠く、さまざまな種類のハーブが具に混ぜられたもので、とくにディルがふんだんに使われていた。口に入れるたびに、爽快な香りが鼻をつんざく。ピロシキにもボルシチにもディルがたくさん使われていて、なんだかディル専門のコース料理みたいだな、と笑ってしまった。

 ――シンプルな食器が多い、ということを単調なトーンで何度か言われて、風の囁きのように耳に残った。シンプルということは、朽ちてある、古びてあるということであり、僕はそれを歴史的に長く使われ続けてきたものと解釈する。アンティークな洋食器の味は古びていること、その佇まいにこそあるのではないかと思うが、友人のその単調なトーンがそれを肯定するものか、ないしは否定するものかは最後まで判らなかった。

 友人を家に招いて食事するときは、大学時代に国立の古道具屋で購入した明治時代の木製の長机に、アンティークのカトラリーをきれいに並べ、どの洋食器にどの料理を盛り付けるかを綿密に考えて差し出す。その一連の過程を想像するのが愉しい。茶室に厳しいマナーがあるように、食卓を囲むにしてもしっかりとしたマナーがあり、その正しいマナーを知り、踏襲する機会になればと願う。

 好きな洋食器にはどのような料理が似合うだろうか、こういう料理は果たして世界に存在するだろうか、などと思いを巡らすことも多い。シンプルな洋食器にはよりシンプルな料理が似合う気がする。キャベツの千切りでも、アンティークの食器に盛れば美味しい料理に変貌するのではないかと錯覚したりする。いや、キャベツの千切りこそ、出来るだけ小細工せずに、本当に美味しいサラダにしなければいけないと考え直す。自己主張がないものの方が美味しい料理が出来る気がしている。

 こういうことを考えたのも、他ならぬピロシキを食べた所為である。友人も何度もピロシキを納得のいくまで焼き直してくれたらしい。ピロシキという単純な見た目のなかに、さまざまな味が楽しめる、発見と奥行きのある世界が拡がっていたからであった。