万有回

主に趣味の読書について綴っていければと思います。「昭和の残り滓」といわれる世代。

Clammbon

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 久しぶりにClammbonへ。煙突から上がる白煙、古くなった壁に並ぶ絵画、隙間なく棚に並べられたCDと白い陶器、年季が入ってくすんだ店内ーー。ここは学生時代、盛岡で初めて入った喫茶店だった。もし人生で閉店しないで欲しい店を5店ほど選べるとしたら、間違いなくそのうちの1つのカードはここに使うだろう。

 それにしても、いったい何という暑さか。盛岡は30℃を上回っていた。そんな暑さの中、ここは紛れもなくオアシスであった。いや、オアシスというより、ふと道を歩いていたら重厚な扉があらわれ、中を覗いてみると不思議な空間がひろがっていたという感覚に近い。体感的に重力の感じが違うというのだろうか、空間そのものに日常とは別の負荷がかかっている感じがするというか。登山をしていて突然トレースが細くなって、気づいたら急な斜面に消えてしまうという感じの不可解な感じに近い。

 頼むのはいつも決まってプリンとコーヒーのセット。プリンは2種類から選べるのでカスタードプリンに、珈琲は迷うことなくアイスコーヒーと即答。

 30年近くも酷使してきたという焙煎機からは常に芳しい香りが立ち上っていた。そこで焙煎された豆を丁寧にドリップし、絶妙なコーヒーにアイスピックで割った氷を入れ、至福のアイスコーヒーが作られる。その過程が目の端に映りこむ度に、「家庭で一杯のコーヒーを作る」のとは訳が違う、何か壮大な事業が行われているように錯覚してしまう。

 儀式のように丁寧な過程を経て作りだされたコーヒーが目の前に運ばれてくると、果たしてこれを呑んでよいものか、と若干躊躇する。適当に入れたものとは訳が違う。金で換えられるものでもない。すべての道具が手の届きやすい場所に配置されている。一切の無駄がない。本質が目前に呈されている。そういうことを、対面した友人と会話しながら、どこか頭の片隅で考えている。

 だが、欲望というものは恐ろしく、何かくだらない会話をしているあいだに、あっという間にコーヒーは減っていく。深煎りで苦みがあるのに飲みやすい。どんなに手間暇かけても無意識で喉を通り過ぎていく。どのくらい複雑な過程を経て生まれたものであるかを知ってか知らずか、皆のテーブルにあるすべてのコーヒーがその運命を辿るように。ブランデー色の何かの糖(友人が、「これは何ですか?」と訊き、店員さんが教えてくれたが、すっかり忘れてしまった)が付いてきたので、少なくなったコーヒーに入れてみたら、さらに濃厚な甘味が加わり、今まで味わったことのないコーヒーに変貌した。

 自家製のカスタードプリンも非常にシンプルだが、手間暇がかかっていることが窺えた。固くも柔らかくもない、ちょうどよい弾力を留めている。ところどころに気泡が見て、スプーンをさしてみて、時間を経て丁寧につくられたことが容易に分かった。甘すぎず、美味しい卵の味がする。カラメルも色も量もかけ方も、至るところに「品」のようなものを感じる。家庭で作るプリンは、絶対にこういうふうには仕上がらない。

 アテンダントの友人がСанкт-Петербургへ旅行した時に綴った手帖を見せてくれた。ほっこりするイラストで、未知の事柄ばかりが記されていて、すごく面白かった。言葉も文化も分からない異国の地に飛び込む勇気と行動力には、とにかく脱帽する。Санкт-Петербургといえば、昨日、NHKで「猫にまた旅~椎名林檎MIKIKO・西加奈子 ロシアを行く~」が放送されていたので録画したが、面白すぎて2回も見返した。とりあえず、あの「宗教」の独特のカットの仕方、ある意味で「NHKらしいなぁ……」と感じた。

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