万有回

主に趣味の読書について綴っていければと思います。「昭和の残り滓」といわれる世代。

深夜焼肉の誘惑

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 GWは東京や新潟へ行ったり、地元で過ごしたりしたが、旅行先に住む友人や帰省する友人と会うとなると、決まって深夜まで遊び耽ることとなる。焼肉を食べたり、ファミレスへ行ったりするのだが……、そこで待っているのが「深夜メシ」における禁断の悦楽である。

 なかでも、焼肉を食べようと画策したのは、夜12時を過ぎた後だった。しかも、その前に洒落たバーへ行って、酒を飲んだ後の締めとして。ささやかな罪悪感と後悔の念を抱くも、夜中にほとばしる肉汁の誘惑には勝てない。

 ふだんは寝静まっている深夜の時間帯に、重い扉の向こう側でA4ランクの黒毛和牛を焼き、齧りつくという非日常。矛盾しているようだが、ふだんは糖質やたんぱく質などを気にし、意識的に食事制限しているのだが、GWという非日常においては完全に意識の箍がはずれてしまう。だが、夜の焼肉にかんしては、やはり友人との凝縮した会話の内容にしても、あるいは酒を愉しむという意味でも、昼間に食べる焼肉とは違う魅力があるのは事実のようである。

 以前、なにかで角田光代トルーマン・カポーティティファニーで朝食を』を評していた文章を読んだ記憶があって、そこではこう書かれていた。朝食というのは、歯を磨いて顔を洗うという忙しなさの延長にある日常の行為であるが、昼食や夕食はわりと余裕がある中で味わうことのできる非日常である、と。だからこそ、ホテルや旅館の朝食には突然もたらされた非日常に心ときめくのである。小説のなかで語り手とホリーが憧れのティファニーで朝食をとらずにマティーニを呑んだり、気を衒ったり趣向を凝らした料理ばかりを頼むのは、要するに「非日常の愉悦」を味わおうとしているのである、と。

 だが、深夜メシというのは、1日3食というサイクルの埒外にある禁断の愉悦に違いない。たとえば、築地の河岸の人や料理人が日の出前に食べる、刺身や焼き魚などの豪華な定食というのは、気を引き締めるという意味においても特別であり、普通の人にとっての「朝食」の概念と遠くにあるものだろう。まだ日の出前の、外が暗いなかで腹ごしらえをすることが僕はずっと羨ましいと思っていた。それは何だか特別な感じがして、日常のサイクルの埒外にあるということが羨ましかったのだと思う。そういうことからしても、深夜メシを食べるというのは、日常的に健全な生活を送っていては得られることのない禁断の果実であり、それまでに味わったことのない愉悦を味わう気分だった。それどころか、よりによって「焼肉」という最も高カロリーなものを頬張るというのはかなりの罪悪感が圧し掛かるとともに、至福の瞬間だった。

 本当に矛盾しているようだが、その時私の鞄のなかには、図書館で借りた「禅僧ごはん」の本が入っていた。精進料理とは食べてはいけないものがある=食べ物に感謝していただく、ということであり、肉・魚介類・卵・大蒜・ねぎ・韮・玉ねぎ・らっきょうは食べてはいけない。動物性の食材を使用しないのは、「不殺生」という仏教の観点によるものであり、「五葷」と呼ばれるネギ科ネギ属の野菜、大蒜や韮も性欲を刺戟するということで食べないのだ、と書かれている。仏教の教えというのは、美味しいものを食べたいという欲望から離れ、不自由における自由を愉しむということなのだろう。これだけ食に対して意識的だったにもかかわらず、深夜焼肉という禁断の領域へ足を踏み入れてしまったことを反省し、明日からしばらく1日1食にしようと心に誓う。