万有回

主に趣味の読書について綴っていければと思います。「昭和の残り滓」といわれる世代。

大江健三郎『文学ノート』

 今年の冬は例年に比べて一段と寒く、雪も降り積もって車で遠出もできない。仕方ないので、近くの古本屋で大江健三郎『文学ノート』(新潮社、1974年)を購入し、おとなしく家で読み耽る。

 第4章の「作家が異議申し立てを受ける」で、音楽・演劇・文学などに共通している「時間軸としての想像力の効用」ということを述べている。音楽では、楽譜の最初の音譜が現実の音を与えられ、最終の音が響くまでにある時間のduréeがあり、それを支えるのは演奏家と聴衆の想像力である。生命がある時間のduréeである以上、演劇や文学も同様であり、想像力こそが生きた意識のduréeとする力として、生命の根柢に存在する。

 もし、ある課題の設定があり、次にその結論があるのみとすれば、人間の営為はコンピューターの一活動と変わらぬのではないか? と大江の論は展開する。小説の書き手の内部で生じるduréeが他者にとって全く意味をなさないのも、我々にとってコンピューターの運動が数字の束でしかないのと大して変わらない。

 「課題の設定」とは即ち仮定であり、吾輩が猫であったとしても、あるいは朝起きたら巨大な毒虫に変貌していたとしても構わない。その仮定が疑いようのない絶対的な公理となる。その公理から結部へと論理的に演繹していくという一連の作業を要すのであり、その論理性の演繹において、いわば「不自由における自由」を得ることができる。「書き手の内的空間におけるdurée」などというものは、音楽が音に限界づけられることによって宇宙的な拡がりをもたらすように、あるいは演劇がうごきによって拘束されることによって比喩的な増殖をもたらすように、書き手の場合も言葉の規則性によって縛られることによって初めて成り立つのだろう。

 たとえば、グレゴール・ザムザ多和田葉子の新訳によれば)「ウンゲツィーファー」のごとく変貌したとしても、なぜ変身したかを問うことは凡そ意味をなさないのではないか、と個人的に思っていた。何で、と問うのではなく、変身という事実をまずは認め、そのうえで言語の論理的演繹の運動に身を委せるべきなのではないか。与えられた条件のもと運動する言葉の芸を見届け、そこで示された一連の行為を追認すべきなのであって、Xという仮定そのものにとらわれている場合ではない。『文学ノート』(大江)にも、「何を書くかということよりも、書く行為自体が重要である」という類のヘンリー・ミラーの発言が紹介されているが(ミラー流にいえば、書くという行為こそが「太陽神経叢」[第3チャクラ]に係わること)、ミラーも書き手と書くという行為とのあいだにある「開かれた作用」の可能性を信奉していたのだろう。

 そもそも、「何か」にあたる部分を厖大な研究成果であきらかにしようと試みたものについては、書き手にとっては至極迷惑な話でしかないのだろう、と昔から思っていた。それを「解釈」といってしまえば一見まともに思われるが、解釈というのはもっともらしければもっともらしいほどもっともらしくない、ということもある。ニーチェが、真理と誤謬は同じものだというような旨のことを言っていたのを思い出す。