Cashew books

本を貪るのは好物のカシューナッツを食べるのに似ている

魅惑の鶏ハラミ丼

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 先日、知人の地元を訪れ、昔ながらの食堂で特産品の鶏ハラミを食べた。貝のようなこりこりした食感だが、しっかりと鶏の脂の旨味も感じられ、噛めばかむほどに口のなかに旨味がひろがっていく。しんなりとした葱との相性も抜群で、絡み合う甘い醤油ベースのたれが何ともいえず癖になった。

 30歳を過ぎてから胃が縮んできたのか、以前のように難なく定食を平らげることができなくなったと実感しているが、2人前はありそうなこの鶏ハラミ丼に関しては、漬け物一つ残さず完食してしまった。火がついたように欲望を曝け出しながら、どんどん箸が進んでしまった。この鶏ハラミという部位は、自制心を失わせるくらい美味しかったのだ。(腹八分で止めずに食べ過ぎてしまったことを後悔したが、鶏もも肉などに比べて鶏ハラミはヘルシーであるような気がした。というより、ヘルシーであることを願いたい。)

 特筆すべきは、「噛みしめる度に旨味が分泌される」ことの発見である。たとえば、ステーキの焼き方について大半のひとがレアを好み、ウェルダン好きは少数派と聞いたことがある。けれども、過剰にじっくりと火を通して焼き上げることにより、旨味を凝縮するという考え方があってもよいのではと思う。個人的には、ウェルダン(=蕩けることから噛むことへ比重がうごく)、こそ旨味と歯応えが最高潮に達するのであり、肉を食べているという実感はそこにしかなく、理性が崩壊する瞬間はそこにあるというのが持論。

 鶏ハラミも、ウェルダンのステーキと同様、何度も噛み続けることで旨味が倍増していく食材である。フライパンで調理したであろう食堂の鶏ハラミ丼も美味しかったが、塩味や味噌味など、特に炭火でじっくり焼き上げるのもさぞかし美味しいに違いない。

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 余談だが、久しぶりの休みだったので積読していた文芸誌を読んだ。新人賞で興味を持ったのが「百年泥」。癖のある文章で好き嫌いが分かれると思うが、個人的に合っていたのか面白くすんなり読めて、散文特有の面白さを堪能させてもらった。

 やっぱり、散文とは解体のおもしろさではないかと思う。組み立てていくというよりも、分解していく方のスリルに軍配が上がる。その零度のスリルに身を委せながらも、ビュトールがいったような、「紙とは、他者の延び行く皮膚である」(嘗てキリスト教圏では羊皮紙に聖書を記したことを念頭に置いた言葉)というオーセンティックな思想も重要ではないかと思う。