万有回

主に趣味の読書について綴っていければと思います。「昭和の残り滓」といわれる世代。

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 近所の川辺を散策していたら、岩の隙間から飛び出てきた蛙に遭遇。よほど暑かったのか、せっかく陽に当たったのに、またこっそり隙間に隠れようとしていた。水車のある涼しい場所だったので、しばらく、蛙のかくれんぼに付き合った。(そういえば、かくれんぼはフランス語でカシュカシュと繰り返していうらしい。ということを、ぐうぜんルピナスの頂き物の紅茶で知った。響きが可愛らしい。というか、考えてみれば、カシェが「隠れる、秘密にする」という意味だったことは憶えていたのですが……。)

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 この頃、気分転換も兼ねてホメロスの『イリアス』などを読んだ。やはり驚いたのがスケールの違いだった。ホメロスの著作は、ギリシャ時代には聖書に匹敵するほどの価値を有するものであったのだろう。現代の文芸と較べてみれば、いかにスケールが小さいかが窺える。殊に、キリスト教全盛の時代にあってホメロスの存在は神に近いものとして、あるいは詩の役割も神聖なものとして認知されていたはずである。つまり、ギリシャにおける詩は没個性的・超個性的でなければならず、少しでも個性が介在する余地があってはならない。

 たとえば、蓮實の三島賞受賞の会見で、NHKの記者が「情熱やパッションがなければ小説は書けないのではないか」と訊くのに対して、「情熱やパッションは全くない。専ら知的な操作によるもの」と蓮實が答える一幕があった。また、この会見で蓮實は「小説とは向こうからやってくるもの」と、耳が腐るくらい何度も記者に説明している。(ところが、記者は真意を全く理解しようとせず、同じ質問を進める始末なのだが。)

 小説というものは常に向こう側から到来し、それを摑まえるのが作家の役割であるという認識に立つことは重要である。内面の豊かさを描くことによって文学が成立してしまった世界と一線を画すということであって、そのNHK記者が、宗教のごとく安易に信じて疑わなかった「近代文学的な自意識像」とも完全に訣別している。世界=Sというサブジェクトの前で、作家は述語的存在にすぎない。ヨットの帆のように風に靡くことしかできない。凝集する世界という側からの命令をテクストに書き込む。考えてみれば、フォトグラフもフォノグラフも、「グラフ=書く、ということ」を起源としていた。

 作家が何かを書くことは、世界とどれほどパラレルでありうるのだろうか。意識の側に振り切ればロマンティシズムとなり、世界の側に振り切ればミメーシスとなる、このふたつの用意周到な罠に陥らずに、いかに正確無比なものを実現するのか。巫女的存在としていかにインターメディエートとトランスレートを同時に行うのか。そもそも、"enthusiasm" の(熱狂、狂気などと訳されるが)本来のギリシア語の語源は「en+theos」(神の内に入りこむこと)であったし、その神憑りこそが『イオン』の根幹であった。(現代の小説はとにかくスケールが小さく、世界の側からの「飽和による恍惚」という感覚がまるでない。これは由々しき問題だと思う。)その神憑りに際して、いかに万全にコンディションを整えるかということなのだろうと思う。