Cashew books

本を貪るのは好物のカシューナッツを食べるのに似ている

コリアンダーの春雨サラダとスープ

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 知らない間に、庭のコリアンダーが白い花を咲かせていた。白く可憐な状態であれば、この花も食べることができるので、早速収穫する。コリアンダーは、根も茎も実も全て食べることができるので、非常に魅力的な食材。私の狭い想像を超えた、多種多様な楽しみ方に満ちている。)ただ、花が咲くと葉や茎が硬くなって食用に適さなくなるので、食べられそうな葉を急いで収穫する。

 春雨サラダは、当初はナンプラーを加えたりしてエスニック風にするのもよいかと考えたけれど、あっさり食べたかったので酢とライムの搾り汁で味付けした。柑橘系の酸味がコリアンダーの爽やかな香りと合わさり、またシャキシャキとした野菜の食感とねっとりとしたキウイの食感も合い、箸が止められなかった。スープはコンソメと胡椒で味付けしたが、パクチーに熱を通しすぎてしまい、少しくどくなってしまった。干して乾燥させたコリアンダーの種があったので、ミルで挽いて粉末状にしたものを加えた。

 それにしても、この時期の香草はなんて薹が立つのが早いのだろう。仕事に忙殺されて、朝と夜くらいしか碌に面倒も見てあげられていないのに。そういえば、円城氏の『道化師の蝶』に、大量のコリアンダーを前にして、香草は腐敗という時間制限を定めつつ献立に組立てられる、という旨の文章があったのをふと想起した。

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 どうでもいい話だが、ジュンパ・ラヒリ『べつの言葉で』を読んでいたら、次の言葉があって考えさせられる。

言葉にされず、形を変えず、ある意味では、書くというるつぼで浄化されることなく通り過ぎるものごとは、わたしにとって何の意味も持たない。長続きする言葉だけがわたしには現実のもののように思える。それはわたしたちを上回る力と価値を持っている。(「壊れやすい仮小屋」59)

 ベンガル語、英語に次いで第三の言語であるイタリア語を学ぶラヒリにとって、イタリア語を活用することは存在証明と同義であった。新しい言語を活用することは、バックボーンが希薄化する状況の中で生き抜く術でもあった。言葉が死滅していく様を人一倍知悉しているがゆえに、言葉が生み出される瞬間に敏感になり、言葉の死期を予測する能力が備わったのだろう。

 事物に対して言語優勢を説くこの考え方は、ラヒリだけでなく多くの移民たちを勇気づけ、現状打破の手掛かりを与えるものである。(但し、彼女の姿勢を見ているかぎり、言語は事物の本質を明らかにすることはない、という本質主義的な思想への充分な反論とはなり得ないと思うが。)それだけでなく、世界文学が全く無関心である「翻訳の政治性」に新たな光を投げかけている。つまり、非政治的に政治性を乗り越えようとしているように見える。

 たとえば、ノーベル賞を受賞した川端が三島や伊藤との鼎談の中で「ノーベル賞を辞退すべきかどうか」という逡巡を表明したことは翻訳の政治性に気付いていたからであり(受賞から4年後の自殺がその影響であるかどうかはさておき)、そもそもサイデンステッカーもキーンも海軍出身であり、そもそも遡って日本が真珠湾を攻撃していなければ、何もかもすべてがあり得ない事態だったのである。また、ここで川端がタゴールの話をしているように、ベンガル語で書いたGITANJALI』という詩集を英訳した人物であったことも重要であって、英語という普遍言語の可能性に想いを馳せていたのかもしれない。(ちなみに、その鼎談の映像はYoutubeにありますので、詳しくはそちらでどうぞ……)