Cashew books

本を貪るのは好物のカシューナッツを食べるのに似ている

ラベンダーのサシェ

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 関東地方は梅雨明けしたそうですが、東北地方はまだ雨が降り続いている。僧侶の方々にとっては夏安居の時期、私も真似して大人しく自室で本を読みながら過ごしている。あるいは、庭に咲いたラベンダーを眺めて癒される。

 庭に咲いているラベンダーは、フォーボーストーム、ミスキャサリン、ロングホワイト、グロッソグロスブルー、バルセロナローズ、アラビアンナイト等々。とくに、ミスキャサリン(写真上)イングリッシュラベンダー系の品種ですが、定番の紫色ではなく、淡いピンクの花が可愛らしくて癒される。隣で咲いているのがフォーボーストームで、こちらは優しくて淡い青の色合い。

 この2つの品種は早咲きですでに摘んでしまったのですが、ラバンディン系のロングホワイト、グロッソグロスブルーなどはちょうど数日前から咲き始めたところ。でも、バルセロナローズに関しては、なぜか咲く前に枯れてしまったようです。鮮やかに咲いてくれるのを期待していたのですが、残念。休日にラベンダーを愛でるのは割と楽しく癒される時間で、日曜の夜になると、ああ、明日から仕事だなと思い、「わたしたちに許された特別な時間の終わり」岡田利規という言葉を想起してしまったり。

 摘んだラベンダーは油塗れになりながら乾燥させ、少量のクローブを混ぜてサシェ(香り袋)を拵える。数年前にマルセイユ在住の友人から頂いたサシェがあるのですが、そのサシェも数年経って鼻を近づけないと香りが嗅ぎとれなくなってしまい、新しい中身に入れ換えた。

 ほかに、「あずきのアイマスク」というホットアイマスクのグッズからヒントを得て、ラベンダーと小豆で目元にあてるアイピローも作った。寝る前とか、本を読んで目が疲れた時などに使用すると、一瞬で強烈な眠気に襲われます。癒しグッズとしておすすめです。

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 そういえば、「影裏」が芥川賞を受賞したとのこと、おめでとうございます。この作品については、文芸誌が発売されてすぐに読んでいた。というか、4月9日のエントリーで書いていました。

 盛岡市在住の作家さんであることから盛岡市内ではお祭りムードになっていて、素晴らしいことであると思うのですが、この作品を芥川賞として認めるかどうかの是非についてはそれなりにひと悶着あっただろうと思う。

 松浦氏が評するように、この作品には謎かけもなければ仄めかしもなく、淡々とした筆致で描かれるだけで、読者に何らかの読解を強いるということがない。(「つまびらかではない部分はあってもこれを説明せよ、理解せよという文学的誘惑・媚態を示さない」松浦氏の選評より)それは確かに良識から生み出された技術であるかもしれないけれど(プールサイド小景以来の省略的手法の復権ではないかとも思うわけなのですが)、言葉の起源、源泉をどこに求めるかであったり、文学作品にシンボリックな仕掛けを導入するという意識が希薄になってきている、あるいは忌避感が強まっているということでもあるのではないか。じつは、これは前に受賞した又吉さんにも共通して言えることだと思う。(文学的な道化性と社会的な笑いの面白さは異なるものであり、同じテクストに原理的に混在できないと私は考えている。)

 個人的に私は、言葉が意識の表層のレベルではなく、メタファーとして機能し、神話化のレベルまで誘うのが作家であるという認識を持ってきた。おそらく、何年もそういうレベルで前衛的な挑戦を続けてきたのが、他ならない鹿島田さんなのだ。彼女が受賞会見の時に「苦節14年」という言葉を発したのは、現代の文学シーンで「神話のダイナミズム」をメタファーとして描けるのは唯一自分だけだ、という意識があったからだと思う。アリストテレス詩学第9章ではないが、三島も大江も歴史と相違するものとして、文学の蓋然性を考慮し続けてきており、それが文学史の正統に棹差す流れであると思う。たとえば、中上のメタファーが雑で許されたのも、テクストとしてダイナミズムを形成し、読者が未来への展望を抱くことができたからだと思う。

 個人的に懸念しているのは、ここ数年の芥川賞は、たとえば鹿島田氏等が狙っていたベクトルとは逆方向に展開しているということ。神話のダイナミズムをネガティブなものとして、「文学的誘惑・媚態」と切り捨てた松浦氏の態度が正しいものであるかどうかについては、改めてしっかりとした議論が必要なのではないかと思う。