Cashew books

本を貪るのは好物のカシューナッツを食べるのに似ている

鯉の甘煮

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 先日、ニテコ名水庵で鯉料理を食す機会があった。久しぶりに甘煮、鯉こく、あらい、たたきを堪能した。生臭い鯉の後味を想像していたのに反し、すべてが淡白な味だった。たたきも上品な味噌の香りがするし、あらいの刺身も全く生臭くない。甘煮も生臭みがないし、くどさもない。ここまであっさりと澄んだ味なのは、名水で有名なこの町で生育した鯉だからで、至るところから透明できれいな水が滾々と湧き出しているこの町の良質な環境に由来するように思える。ただ、私にはその「食べやすさ」が果たして良いことなのかどうか、疑問に感じざるをえなかった。

 この時思い出したのが、宇能鴻一郎の『味な旅 舌の旅』(中公文庫)というエッセイ。このエッセイは食をテーマにしたもので、個人的に何度も読み返すほど好きなのだが、鯉の黄金煮と称する料理が出てくる。宇能はこの料理の濃すぎるタレとゼラチン質の脂肪の脂っこさに感激し、お椀に残った透明な脂肪を底のタレごと啜り込み、さらには水を飲んでもいつまでも口中がギトギトしているような脂っこくて味の濃い料理が最低一品なければ飯を喰ったことにならないという自説を開陳している。

 その理論的根拠こそ、人間の存在に対する問いなのである。彼は、「自分以外のあらゆる存在を、わが身に取入れたい、熾烈な願望のようなものがある」という。味の濃さとは他者が自らの身体をどれほど侵犯するかに係わってくることなので、それによってこちら側もどの戦術で応じるかということを吟味しなければいけない。舌なめずりするような尾を引く料理というのは、たとえばS1…Snへの拡張においてSkを発見すること、未知なる他者との邂逅であるといえて、当然、高度なタクティクスが求められる。宇能が食事の後の「口直し」という行為を批判するのは、人間はそもそも他者性に対してどれほど寛容でありうるのか、他者を無視して自らを正当化するほど愚かな生き物なのかという問題意識があるからだろう。口直しとは結局、他者から侵犯された事実を消し去り、自己の都合の良いように正当化するためのセラピーに過ぎないのではないか。

 鯉料理を食べているあいだ、その宇能的な鯉の身体侵犯説が脳裏をよぎり、期待していたほどに生臭くなく人間の味覚に馴染み、向こう側から侵犯されないという事態に戸惑った。というのも、苦みや臭みを感じないことが物足りなく感じられてしまうだけでなく、味覚の調子が狂ってしまうのだ。味に対する批評は、そもそも他者に侵犯されなければ生じえない。メラニー・クラインではないが、他者に侵犯されているという事態が葛藤を引き起こすがゆえに、「対象」との相関が絶滅と保護の問題に移行するのである。

 鯉料理を食べた後、知人と店の敷地にある池で泳ぐ鯉を眺めていた。鯉が岩の下にそっと隠れ、尻尾だけを静かに覗かせていた。人間の気配に気づいたのか、しばらく微動だにしなかった。静かな、ゆるやかな時間が流れていた。潺潺とした清水の流れを眺めていると心が洗われて、透き通った水底の石は地面の石よりも輝いて見えた。そうして川のせせらぎの音に耳を澄ましていると、どこかで鯉の飛び跳ねる音が聞こえたりした。