Cashew books

本を貪るのは好物のカシューナッツを食べるのに似ている

展勝地の桜

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 知人から誘われ、展勝地へ花見に行く。桜は満開で、誰もがみな顔を見上げて歩いていた。

 展勝地は何度か訪れているが、堂々と咲き誇った桜が連なり、人間の頭上を覆いつくすという光景は圧巻である。しかし、子どもの頃から私は、花を愛でるにもそれなりの流儀を要するのであって、夥しい数の桜を観賞して歩くのは悪趣味なのかもしれないと考えていた。桜を観るために舗装された道があり、多くの屋台が立ち並び、団子や飲み物を食べながら歩く。以前、食べ物の屑が道路脇に散らかっていたこともあった。

 夥しい数の桜の下に、同じくらい夥しい人が大挙襲来する。いかにマナーが良かったとしても、単純に闊歩する人間の数が増えれば、それに応じてごみの数も増え、自然破壊は拡がっていく。これら環境の問題は、マナーの良し悪しを競うこととは別問題である。そもそも、人間が歩くための道が舗装され、飲み食いするための屋台が立ち並ぶということが黙認されている時点で、穢されることはあっても清くなることはないのだから、環境の美化について考えないということが前提となっている。要するに、花鳥風月を愛でることは、穢れと隣り合わせでなければ成り立たないのである。

 桜の美しさは人間の暮らしとは無縁であり、桜が美しいと思う人間の主観とは乖離したところに存在する。人間が足を踏み入れないような僻地にこそ、可憐な花が咲くのではないか。花の美しさを索めて人間が一定の場所に密集するということは、純粋に花を愛でるという行為から遠ざかってしまい、桜を人間の欲望の犠牲とすることであり、人間を前にして、桜花は客体にすぎないという宣言でしかないように思える。私の中には、幼い頃から、そういった人間主体的な状況を敏感に察知しては辟易してしまうところがある。自然を愛でることは、人間主体の論理からは切り離されている。

 小学校で「さくらさくら」を合唱した時、強烈な違和感を感じた。それらは音楽に対してだけでなく、言葉に対する冒瀆であるように感じた。一刻も早く、この「さくら」という浅薄な記号を打ち砕かなければいけないという考えに至った。それはある種の洗脳といってよいもので、言語の可能性も自由な想像力もその時にすべて失い、堅牢な共同幻想の中にとらえられてしまった気がした。桜という装置が軍国化や国粋主義の象徴として利用されてきた負の歴史から、継時的にも共時的にも、私たちは切り離されなくてはいけなかったのではないか。

 等々、くだらないことを考えながら花見をした。知人に話したところで理解されないのでふだんからこういうことは共有しないようにしている。なるべく共同幻想に引きずり込まれることなく、純粋に花の美しさを愛でることができればよいと思うけれど。

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