Cashew books

本を貪るのは好物のカシューナッツを食べるのに似ている

馬酔木の花

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 昼過ぎに公園を散策してみると、あちこちで馬酔木の花が咲いていた。白く可憐な花が房状に重なり合い、樹々を覆っている。山茱萸の黄色い花も咲いていて、春に咲く黄色い花のなかで先陣を切る姿は潔く思えた。ふと斜めに光が差し込むと、明るく鮮やかな黄金色が浮かび上がって、早春の訪れを感じさせた。

 山茱萸といえば、昨年、ホワイトリカーと氷砂糖で山茱萸酒を作った。山茱萸酒のほか、梅やサルナシ、サクランボやマルメロ、なつめや菊花、カモミールジャーマンや月桂樹等々、いろんな種類の酒を仕込んだ。毎晩、少量ずつ飲むようにしているけれど、じわじわと体の調子が良くなってきているように思う。

 そういえば、鷗外の『かのように』に、「ドイツのような寒い国では、春が一どきに来て、どの花も一しょに咲きます」という秀麿の台詞がある。ドイツでなく、現在私が住んでいる場所でもそれは同じことなのだった。寒い北国の地方においては、さまざまな花が同時に咲き乱れるという、まるで絢爛な春の時間に取り残されたような、蠱惑的な僥倖の瞬間がある。これから桜、梅、連翹などが次々と咲き始めることで、「春」の風景が少しずつ作られていく。

 書店に寄り道して「文學界」を購入し、真っ先に新人賞受賞作を読んだ。「四月も五日を過ぎると、(……)水仙が連翹が咲き黄色味が加えられた」という風景描写があり、どこの地方の話かと思っていると、なんと盛岡が小説の舞台だった。著者は盛岡在住とのこと。しかも、私の生まれ故郷の地名も登場し、死というものを考える上で重要なトポスになっている。硬質で慎重深い文体を採用する一方で、不要な情報は削ぎ落とされ、隅々まで配慮が行き届いているという意味で洗練された印象を受けた。

 たとえば、SRS性別適合手術もあえて単なるひとつの付帯情報として描かれていながら、有機的な奥行きをもたらすあたり、『プ—ルサイド小景』の手法を想起させる。(つまり、そういう作り込みの緊張感において、「インドシナ難民」という言葉を発することによる世界の急激な拡張に耐えうるのか、などというところが気になったけれど。)ただ、読み方によっては「あえて付帯情報にとどめた」といえるし、「付帯情報としてしか描かれていない」ともいえるのであって、そもそも付帯情報として描く必要がなかったといわれればどうするのか、中には「これで震災文学と言われては困る」という向きもあるのではないかと思う。

 終盤、滝沢市の日浅の実家を訪れる場面があるが、ここでも妙な既視感を感じたのは、昨年公開された映画「リップヴァンウィンクルの花嫁」の安室と真白の母とのやり取りに酷似していたからかもしれない。書き手がこの映画を観ていたかどうかは分からないし、あくまでも私の邪推かもしれないが、物語の展開がとても似ている。

 余談だが、ハニーブッシュというものを家で煮出してタンブラーに入れて持ち歩いている。ハニーブッシュは南アフリカのフィンボス(灌木群生地帯)に自生する灌木で、甘い蜂蜜の香りのする黄色い花が咲くという。口を近づけたときにほんのりと蜂蜜の匂いが漂ってきて、優しい風味のなかに甘酸っぱさであったり、ハーブのような香りであったり、さまざまな香りで充たされる。この香りのバランスが、精神的な癒しをもたらしてくれる。花の効用たるや本当に凄いなあ、と感嘆する。

 

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 そういえば、この公園はいつ行っても鳩がたくさんいる。餌を撒いている人も多く見かけ、鳩の方から嬉しそうに手乗りしているように見える。近寄っても逃げようとしないので手を差し出してみたが、残念ながら手乗りしてくれなかった。さすが鳩、餌を持っていないと一瞬で見抜いたのかもしれない。

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