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万有回

主に趣味の読書について綴っていければと思います。「昭和の残り滓」といわれる世代。

花椿

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  世間では2度目のプレミアムフライデーでも、私は深夜の帰宅。それどころか、休日出勤というオマケまで。(そもそも、年度末なのに早く帰れる人はどのくらいいるのか……)

 土曜の仕事は早めに切り上げて、和菓子屋に併設されたカフェへ。手前にディスプレイされている丸くて赤い菓子が、春らしい雰囲気を醸し出す。燃えるような鮮やかな色と、端正で優雅な佇まいに惹きつけられる。いっけん人参のようにも見え、トマトのようにも見えるが、実はこれ、花椿を模った和菓子らしい。

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 上から眺めてみると、雄蕊の葯までも細かく表現されている。空洞となっている中央の部分から、甘美な匂いが放散しているような錯覚にとらわれる。まるで、花から花へ、蜜から蜜へと歴訪する蜜蜂の気分に。そっと縦に黒文字を忍ばせると、中には漉し餡がぎっしりと詰まっている。

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  考えてみると、数年前からこういう正統派の和菓子は世間的に劣勢である。コンビニのスイーツの棚に陳列されているものも、シュークリームやティラミスなどの洋菓子ばかりで、大福やわらび餅というものが置いてあるかと思えば、大福やわらび餅までも洋風とある。洋菓子が優勢であるならまだしも、和菓子の中身までも洋風化されているとは一体どういうことなのだろうか、と疑問を感じていた。

 洋菓子の要といえる生クリームなどの起源は牛乳だが、和菓子の要である餡は小豆である。豆よりも乳が急速に受け入れられてきた背景には、人工的な食物を摂取するのに違和感を感じなくなってきていたり、即物的な美味しさに惹かれてしまう、つまり食の婉曲的な愉悦を失うということがあるのではないか。あるいは、赤子にとって母乳が必需品であるように、一種の幼児回帰なのかもしれないとも推察できる。流行に敏感なコンビニ戦略の裏に、現代の利便性というものが生み出した負の側面が透けて見えるのが気味悪くもある。

 この和菓子屋に陳列されている菓子は、この花椿だけに限った話ではなく、どれをとってみても花のように凛とした優雅な佇まいをしている。そこにはアイディアを生み出して具現化する時の葛藤から、完成後に名を冠するまでの覚悟が煌いている。和菓子が食卓から遠ざかっていることは、そういった一連のプロセスへの不認可(というか、無関心による排斥)でもあるのではないか。慌ただしい現代人にとって、美味しいかどうかということだけがすべてであり、それ以外の要素には何の関心もないのかもしれない。とはいえ、生活に障りがないものを全て削ぎ落して、生活というものが成り立つとは到底思えない。逆に、人間の生活というものは、生活にとって不必要であり無意味なもの、「剰余」の部分を取り入れることによって成り立っているといえる。鷗外が描いていた「空車」の無意味性の美学は、時代を超えて不滅であるのかもしれない。