Cashew books

本を貪るのは好物のカシューナッツを食べるのに似ている

Florentins

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 特に予定のない休日には、フロランタンをつくる。幼い頃には頻繁に作っていた憶えがあって、家族団欒の年中行事としての趣きもあった気もするが、しばらく遠ざかっていた。今はただ単純に食べたいから作るだけのこと。周りの焦げてパリパリした部分が美味しくて手を伸ばすので、先に外周の部分から無くなっていく。

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 大学時代の友人が大手新聞社で記者をしているのだけれど、久しぶりに長電話をする。(といっても、殆どは懐かしい思い出話や近況報告に終始したわけですが……)

 ここ最近の報道の在り方について、余りにもアンフェアではないかと疑問に思うことが屡々あった。客観的事実を積み上げていき、その上で科学的分析を行うという基本が踏み躙られているという気しかしない。それどころか、人権侵害の域に達したように思う。そのジレンマについては、友人も散々思い悩んでいるようである。

 なぜか証拠能力のない人物の発言が大々的に取り上げられ、証拠としての妥当性を精査することもなく、一般人が疑惑の対象となったり、証人喚問されるという事態も理解しがたい。しかも、(K氏を例にとってみれば)与党は参考人招致すら躊躇っていたにもかかわらず、一転、証人喚問に応じた理由が「総理への侮辱」という不可解なものだが、この世界には人の数ほど「侮辱」は存在しているわけで、マスコミが取り上げないから表面化しないだけの話である。リテラシーのない記者によって証拠能力のない人物の発言が証拠として取り上げられ、世間を賑わせるという構図自体に問題があるのだろう。内閣支持率47.6%というのも、こういった証拠不十分や報道のノイズによるものかと思うと、いたたまれなくなる。森友学園の写真とともに総理の姿が映し出されたり、国会で声を荒げる姿が映し出される。信じられないことだが、それだけで煽動されてしまう人も案外多いように思える。

  それにしても、中学や高校時代に本を愛読していた作家や評論家などの文化人が、それらの証拠不十分な報道に加担し、一私人の実名を挙げて攻撃しているのを見るにつけ、さすがに幻滅し辟易してしまった。攻撃の矛先はそこではないだろうということで、(あれほどの資料価値の高い本を書いた人にもかかわらず)大体なぜ事前に論拠を精査しないかと不思議でしょうがない。この純粋培養的に醸成された産物というか、時代遅れの「文化人的態度」……とりあえず、権力者を批判すれば文化人らしさを示せるという「文化人」の態度は、最も文化人たるべき者から遠ざかっているようにしか思えない。そういうポーズとしての批判は、私が最も軽蔑し、忌み嫌うものに他ならない。何度も言うけれど、表現の自由云々以前に、幼い頃に本を読んでいた著者がここまでリテラシーがなく、無条件攻撃を加えるような思考回路の人だったかと思うと、とにかく情けなくてしょうがなくなる。

 私が大好きな言葉に「侮蔑の天性」というものがある。三島の『仮面の告白』で出てくる言葉だが、これだけ鋭く本質を突いた言葉は余りないと思っている。善人悪人問わず、公人私人問わず、この「侮蔑の天性」(むろん、他者を傷付けるという意味での侮蔑ではない)が生来的に備わっていて、その天性を気高く、余すところなく発揮できる者が文化人に値するのではないかと個人的には思う。今回の報道に接して感じたのは、この「侮蔑の才能」が大半の人びとに欠けており、本来の敵ではなく、何の罪もない人びとへ侮蔑の刃の矛先を誤った形で向けてしまった者が多かったということ。それと、教養の高い人でさえ侮蔑の対象を見誤うこともあれば、一方で普段全くニュースに興味がない人でもフェイク(というか、過剰なまでの圧力、歪曲?)をすぐに見抜いていた人もいたということ。メディア・リテラシーが本当に必要なのは、受け手側よりも送り手側の方なのではないだろうか。