読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

万有回

主に趣味の読書について綴っていければと思います。「昭和の残り滓」といわれる世代。

ο

f:id:momokawataro:20170109151828j:plain

  今年見た初夢は、私が喫茶店で珈琲を飲んでいると、前の人が椅子の背凭れによりかかり、いつまでも指揮を振り続けているというものだった。身体が揺れる度に、年季の入った椅子が鋭く軋んだ音を発した。珈琲が運ばれてきても、ラヴェルの「クープランの墓(トンボー)」に合わせて指揮を振りつづけ、明らかに冷めたと思われる頃になっても、全く飲む気配がない。私も珈琲を飲みながら、膝の上で右手でピアノを弾いていたのだが、私が大好きな3曲目のフォルラーヌに差し掛かると、とつぜん音響機器がトラブルを起こして中断してしまう。前の人は宙に手を伸ばしたまま石像のように動かなくなってしまうのである。

 なぜ、こういう初夢を見たのか分からない。原因を追求しても明らかになると思えないし、単なる偶然の産物にすぎないのではないかと思う。もしかすると、大学生の頃、道玄坂にある名曲喫茶ライオンによく出入りしていたことが記憶の底に滞留しているのかもしれない。とりあえず、しばらく聴いていないラヴェルを元旦から無料で聴けたということで、少し得をしたと思うことにする。

 ***

 タイトルについて、イラストにある鯨座のο星のことでもあるけれど、私が好きなサイトウ・マコト『SCENE[0]』の話を少ししたかったのもあった。

 サイトウ・マコト『SCENE[0]』は、2008年に金沢21世紀美術館で開催された、グラフィック・デザインからペインティングに転向した最初の個展だった。当時、私はサンダーバードを乗り継いで、福井から金沢へ見に行ったのだが、余りにも素晴らしすぎて身体の震えが止まらなかったのを憶えている。大判の画集を購入したのも、この時が初めてだった。

 ひとつのイメージから特徴や輪郭が喪失し、無数の様態へと変容を遂げる。感覚的な風景が描かれているにもかかわらず、人間が人間として存立しえるかどうか、「顔」が顔として認識できるか否か、その限界のところまで過剰に物質化される。しかも、イメージを解体する過程で、グリーンバーグピカソを例に「リフレクション」と呼んだように、二次的に絵画を象徴化するような思考過程を経た上で、絵画的とも映画的とも言い難いような、新しいイメージの様態を生み出した。イメージの色彩についても、例えばサーモグラフィーのように色彩で熱分布を可視化できるような有益なグラフィックではなく、「情報の有益性」などといった要素から悉く切り離されている。

 こういうふうに、人間と事物の境い目が判別できないような状態というものに私自身、子どもの時から夢想することが多く、憧れてきたところがある。なぜなら、事物というのは有益性ばかりが強調されることが多く、事物と人間の相関において、殆どのひとが事物の一面性にとらわれてしまう。その事物の一面を見ただけで、事物のすべてを分かってしまった気になってしまい、事物と人間は固定した関係の只中に置かれることになってしまう。(それは「事物についての無知」という誓約を交わしたようなものではないだろうか)たとえば、殺風景な事物というものの最たる例が「コンクリート」だと思っていて、有益性を軸とする思考の負の産物であって、柔らかな人間の思考に壁をつくるものとしか思えなかった。当然であるが、人間の皮膚というものは軟弱にできており、その時点ですでに鉱物に対して勝つことはできていない。

 警備員などを見ると、自身の足がコンクリートに触れていることに対して「俺はコンクリートを踏んでいる」と認識することがあるだろうか、地面がエイリアンだったら最初から踏むという行為はできないはずではないか、などとよく思うことがある。どうして、この警備員をはじめ、多くの人間は足を地面につけたりすることができるのか、寝る時に頭を枕に接触することができるのか、というようなことを考えてしまう。そういうふうに、事物を多様な角度から眺め直すことによって、多くのひとが普遍的な観念として幽閉されてしまった事物のイメージを解体することが必要だと思えた時期があった。だから、人間と事物を同じステータスに置くことについて考えることは、何となく考えれば簡単なようでありながら、実際に突き詰めていくと非常に難儀なことである、なぜなら人間と電柱の差異が消滅する瞬間でもあるし、人間が手をつなぐという情緒的な瞬間すらも仮に電線の模倣にすぎないとしたら……と考えなければいけない状況というのもあって、事物の真理を悟るということが常識的な人間の思考を止めなければいけないということでもあり得るので、いつしか意識の箍が外れる瞬間がくるのではないかと慄いた。

 もちろん、それは非人間的な営みであって、それが難しいということは、所詮、私が常識的であり、事物と癒着しており、人間という存在の中に留まっているにすぎないからかもしれない。近代以降の我々が、「オートノミー」というように「私」を「自治」することしかできないとすれば、もう既にそこに「私」というものは存在しないといえるのではないか。私を自治する能力の低下が問題視されるならば、逆に過剰に自己を支配する熱の上げ方にも注意しなければいけないと思う。たぶん、(事物と言語の関係においては)私はクラテュロス派ではなくヘラクレイトス派なのかもしれない、ということで、とりあえず、日記でもエッセイでもないことをつれづれと書いてみた。