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伊藤整『日本文壇史16―大逆事件前後』

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 久しぶりに1日丸ごと休みだったので、スコーンを作ってみたりした。近くに住んでいる従妹の家に行く用事があったので、その従妹に差し入れすることに。従妹は高校で教鞭を執っているのだけれど、20代後半の女性の部屋とは思えないほどメカメカしている。何十万もする高価な天体望遠鏡が部屋の中心に鎮座しており、キャビネットもさまざまなグッズで埋め尽くされていたりする。むしろ天体望遠鏡のほうが部屋の主役であり、従妹のほうは客人として追いやられている感じがしないでもない。

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 通勤の合間などに、伊藤整の『日本文壇史講談社文芸文庫、1997年)を読み進めていた。殊に興味深いのが、大逆事件を取り扱った「第16巻」である。第16巻は伊藤が病に倒れたため未完の遺著となったが、文芸評論家・瀬沼茂樹が跡を継いで完成させたものである。

 そもそも、伊藤は大逆事件の経緯をなぜここまで綿密に調べる必要があったのか。それは大逆事件が偶発的に生じたものでなく、いわば反自然主義的な文学的潮流の陰画として、明治末年の文壇の動きと呼応した形で起こったからだろう。*1大逆事件の)関係者は多く明治の文学者としての性格をもって終始することがあった」と瀬沼があとがきで書いているように、たとえば幸徳自身もクロポトキン「麺麭の略取」の翻訳を行ったし、「萬朝報」「平民新聞」をはじめ、大逆事件の多くの関係者が様々な新聞や雑誌の編輯に係わっていた。おそらく幸徳自身の社会主義的な思想の原点は出版界にあったはずで、文学者的な一面も兼ね備えていたはずである。つまり、どれだけ言論を過激化し、文章を煽動的にすれば大衆に受入れられて、政府による弾圧や新聞紙条例・讒謗律等の取締りから上手く逃れることができるかということを幸徳は意識していただろうし、政府による迫害と言論の自由とのあいだで板挟みになっていたのではないかと思う。

 伊藤は大逆事件に関与した人物の生い立ちや人間関係を中心に描いているが、それらを詳らかにすることで、決して大逆事件の実態が明らかになるわけではない。そういう意味において、本書はあくまでも「文壇史」という範疇に留まるものでしかなく、大逆事件の真相や実態については殆ど分からない。*2伊藤が描いている幸徳秋水像は、評論などの執筆をつうじて過激な煽動を行うけれども、現実的に革命的なテロリズムを起こそうとは考えていない、あくまでも思想家としての社会主義者である。たとえば、幸徳は宮下太吉から「筆の人であって、実行の人でない」と思われていたり、須賀子からは「爆裂弾によるテロを実行するつもりだが、あなたは実行に加わりたくないようだから、あとで迷惑がかからぬように縁を切っていただきたい」という旨の話をされている。現代の一般的な認識では幸徳は冤罪の人といわれ、非戦論ばかりが取り上げられるが、おそらく伊藤にとっての幸徳は、「何となく暴力革命の謀略という気配が漂いはじめてい」(38)て、「意味のはっきりしない怪しげな人物がときどき現われ」(75)ることもある、思想的な意味で暴力革命を煽動した人物として映っていたのかもしれない。

 日本文壇史と併せて、徳冨健次郎(蘆花)の「謀叛論」『謀叛論―他六篇・日記』岩波文庫、1976年)を読了した。大量処刑の8日後という、熱冷めやらぬ時期に旧一高で行われた講演である。「今度の事のごときこそ真忠臣が禍を転じて福となすべき千金の機会である」「冷かな歴史の眼から見れば、彼らは無政府主義者を殺して、かえって局面開展の地を作った一種の恩人とも見られよう」と蘆花が述べているように、列国も注目しているかような状況下で彼らの異端思想を排斥せずに、寛大な措置を講じることが望ましいと嘆願しているのである。死刑に処すことが、かえって叛逆者の怨恨を増幅させると感得し、報復を引き起こす可能性を懸念してのことであった。*3無念にも幸徳らは処刑されることとなったが、その後も蘆花は、死刑廃止論者として死刑制度への批判を行っていた。思うに、実質的には冤罪であるにもかかわらず死刑という法律の名のもとに大量処刑へ踏み切った国家権力の暴挙、証拠不十分にもかかわらず簡単に人間を処刑してしまう国家に対する憤懣を抑えることができかねたのだろう。*4

 多くのインテリが口を噤む中にあって、叛逆者を支持すれば不敬罪となる危険性を孕んでいるにもかかわらず、しかも地方ではなく東京で、一高の壇上から、多くのインテリの聴衆を前に公然と「叛逆者」を弁護するという事態がいかに「異例」のことであったか。内容ばかりではなく、公然と弁護する姿そのものが、「真のインテリとはこうであるべき」という教育的啓蒙性を兼ねたものであった。実際、文士の多くは傍観者的態度に徹し、口を噤み、何ら弁護することもなかった。つまり、アンガージュマンというような、連累の意思など然して存在しなかったわけである。とはいえ、閉塞した行き詰まりの時代にあって、さまざまな作品の此処彼処に暗い影を落としていることは確かである。たとえば荷風は、市ヶ谷で囚人馬車を目撃し、「私は世の文学者とともに何も言はなかった。私は何となく良心の苦痛に堪えられぬやうな気がした」「自ら文学者たる事について甚しき羞恥を感じた」(「花火」)とまで書いているが、その良心の苦痛や羞恥は何ら荷風に限った話ではないはずである。

*1:大逆事件の思想と文壇の動向の遭遇を捉える上で、おめでたき文学者たちの浮かれ騒ぎともいえる「パンの会」黒枠事件が終章で描かれており、まさに象徴的である。ちょうど予審決定を迎え、世間が社会主義は危険思想だと警戒している中、ベルエポック的なおめでたき芸術家や文士たちの参集の場が「異常」なものとして捉えられただろうことは想像に難くない。しかも、明治43年11月20日に三州屋で行われた本会では、谷崎と永井荷風が初めて言葉を交わすという、文学史的な意味での事件も起こるのが興味深い。

*2:本書で最も興奮したのは、荒畑寒村が愛する須賀子が幸徳と同棲していると知り、二人をピストルで銃殺しようと構想するが、目的を果たせずに雨の中小田原の海岸に坐って、ピストルを自分の額に当てたが引き金を引くことができないというくだりである。本来「文壇史」という枠内から漏れてしまうような、個人的な事柄が記載されているところも非常に面白い。

*3:「難波大助の処分について」では、このような文章がある。「幸徳を刑し、大杉を殺し、難波大助を出した。難波大助を刑殺して、而して後何ものが出で来たろうか。総じて善も悪も力は級数を以て進み、反動はヨリ募るものである。私は難波大助がその罪に死んだ後の世の中を危ぶむ。死は必ずしも成仏ではない。」

*4:「生きよう。生きよう。努力して死の支配を脱けよう。個的にも公的にも暴力の支払いを脱けよう。/殺を忌もう。同時に殺に酬ゆる殺を止めよう。成仏する仏をつくる死刑を廃しよう。死刑廃止は戦争廃止に先立つ。(「死刑廃止」、50)「僕はいかに酌量すべき余地はあるにせよ爆裂弾で大逆の企をした人々に大反対であると同時に、これを死刑にした人々に対して大不平である。お互に殺し合いは止したらどうだろう。」(「死刑廃すべし」、40)