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万有回

主に趣味の読書について綴っていければと思います。「昭和の残り滓」といわれる世代。

薩摩芋餅、立食いそば

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 職場の近くに、若い女性が切盛りしている小さなカフェがある。珈琲などの飲み物やロコモコなどのランチだけでなく、なぜかお餅や雑煮にも力を入れている。

 新メニューに薩摩芋のお餅というのがあったので、試しに注文してみる。驚いたのは、たれがしょうゆ味のそれではなく、薩摩芋のペーストだったこと。どろっとして濃厚だがそれほど変に甘くなく、素材の甘さが引き立つ程度に抑えられている。案外、薩摩芋の風味が餅と合っていて、不思議な感覚だった。

 久々の餅の威力たるや凄まじく、ボリューミーで腹持ちがよい。おかげで晩飯抜きとなった。

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 そういえば、前に所属していた部署の上司は、自称「立食いそばマニア」だった。

 会議や仕事が終わると、よく駅の立食いそばへ誘われた。うどん嫌いで、そば専門の人だった。熱々のそばが差し出されると、素早く麺を啜り、あっという間につゆまで平らげてしまうのだった。その時点で、私はまだ半分も食べ終えていなかった。まるで食事の迅速性を競っているかのようだった。

 一緒にそばを食べている時、「あまりにホットドッグ的な」という倉橋のエッセイが頭をよぎるのだった。ホットドッグがアメリカにおける単一性(unity)の象徴であり、アンチ・ダイバーシティであるとするならば、立食いそば・うどんの類も同様というのである。味や旨さの実感ということの優先順位が低く、単に空腹を満たすこと、機械的に喉から胃へ押し流すことが目的なのであって、偏執狂の一種とみることもできる。

 逆に、牛鍋の旨さに恍惚となりながら、娘が差し伸べる箸すらも無視し、食に集中する男の姿を描いたのが鷗外。まるでこの男は、牛鍋の旨さを実感することに対して全神経を費やし、全ての時間を捧げているようである。(同じく、鷗外も圧倒的で的確な描写と無駄のない論理展開によって、その一幕を描き出している。)独逸流の衛生学かぶれの鷗外は何でもかんでも火を通したがる癖があったという、森茉莉『貧乏サヴァラン』の逸話をどうしても想起せざるを得ないが、この芸術至上主義的態度についても、ホットドッグの事例と同様、偏執狂の一種といえるかもしれない。

 ある日、大学教授との打ち合わせが終わった頃、よろしければ立食いそばに行きませんか、と突然上司が訊ねた。教授は若干戸惑った様子で、しばらく立食いとは縁がないですねえと遠回しに話していたが、上司は全く意に介さずといったふうだった。また、教授は、大学傍の料亭の鴨南蛮が好きだとあえて仰っておられたが、上司はさしたる興味も示さず、その場の相槌で軽く受け流していた。まだ部下も連れていってあげたことのない穴場の駅の立食いですので、期待してください、などと自慢気に話していた。

 結局、その駅で出されたそばは、他の駅の立食いそばと全く同じもので、何の違いもなかった。むしろ、麺の食感が少し不満だったので、個人的には別の駅の立食いそばのほうが好みだった。この駅の立食いが穴場というのは嘘だったのではないかと勘繰りもしたが、食後に上司が満足気な表情を浮かべていたのを見て、ここが穴場というのはあながち嘘ではなく本当なんだな、と思った。穴場の理由は、さっぱり分からないけれど。