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万有回

主に趣味の読書について綴っていければと思います。「昭和の残り滓」といわれる世代。

河久弥恵子『コンクリートと高さと人達』

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 9月末ですが、残暑ですね。1か月前に逆戻りしたかのようです。喫茶店のテラスの噴水が涼しげだったので、撮ってみました。

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 最近読んだ本のなかで感銘を受けたのが、河久弥恵子『コンクリートと高さと人達』深夜叢書社、1973年)。四十余年も前とは思えないほど、実験的な傑作だった。

 世界が相対として私たちとの関係を拒否したらどうなるか、というテーマに真正面から向かい合っている。人間と事物の相関、人間と世界の相関に根本的な疑義が生じ、苦悩し懊悩するさまが描かれている。たとえば、ロカンタンの嘔吐のレベルなどとは異なり、盗みという行為を経て、刃物で危害を加えるという地点へと到る。

(……)彼はぼくをみた。ぼくだけを見た。二人は向き合って立ち止まった。ぼくと彼だけの関係。ぼく達との間には、一つの関係が出来上がっていた。彼はその意味を知ってはいなかった。ぼくはバッグに彼の手の体温を感じとったとき、体温はそこにこびりついていた。ぼくの手の中で、それは拡がり出していた。ぼくはみぶるいした。(13)

(……)ぼくは不安になった。始まってしまっている、二人の関係が進んでいたからだ。ぼくの前で、彼は怖れ出した。ぼくがいる、ぼくが、ある、この意味がわかったからだ。ぼくにも、彼のある、意味がわかっていた。地下道はなめらかな通路で、何にもない通路で、バッグをもった男に恐怖があった。ぼくも恐かった。ぼくはナイフを出した。ぼくはナイフでさした。男の恐怖に従ったのだ。(20) 

 ここで描かれる人間の意識は、世界との均衡を失い、あらゆる事物から遮断されているようにみえる。(上記の「バッグ」というのは、「バッグ」としてのバッグではなく、「エイリアン」としてのバッグといえるかもしれない。つまり、知識の体系から外れているということである。)しかし、同時に、他者との無関係性を突き詰め、「社会性」(という、いかにも世間が好みそうな)概念を完全に失ったとしても、人間存在が事物と何らかの関係を継続せねばならないことが描かれている。意識のベクトルは意味の把握ではなく、世界の構造変化の察知へと向けられる。 

 それはまるで、1cmの対角線が√2 の無理数にもかかわらず一定のディメンションの中に見事に収まるという、ユークリッドの事象を想起させる。別の方向へと移行するわけではないという、まさにそのことによって、存在論、認識論の枠組みが崩れていく。それと同じように、事物との相関から逸脱した人間存在の一形式の表象によって、むしろ群衆は事物と密接に係っているようでありながら馴致しているだけの存在にすぎないこと、また、事物との相関を失うことによって、新たな事物との係わり、事物との意味の発見が可能であることを提示しているように思う。

 現代でも、Suicaなどのプリペイド電子マネーによってさまざまな数の接触をこなしているが、その異常性であるとか、その接触が遮断されたらどうなるかということを考える機会は少ない。あるいは、3Dという表現が発達しているが、虚像と実像との完全な差異や溝といったものを考えることもまた少ない。「把捉する」とか「把握する」という言葉は、当然ながらすべて「つかむ」という行為に由来している。ふれるということは、認識の最終局面なのだ。もし、触覚が危うくなり、対象をつかむことができないならば、人間は蹲ることしかできなくなるだろう。

 視覚・触覚優勢の現代において、みること、ふれることの問題、あるいは人間と世界との相関について考える上で、改めて再読に値する一冊といえるかもしれない。