万有回

主に趣味の読書について綴っていければと思います。「昭和の残り滓」といわれる世代。

安田浩一『ヘイトスピーチ 「愛国者たちの憎悪と暴力」』

 

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 本日は、東京都知事選挙の投開票日である。東京都民でない私に選挙権はなく門外漢であるが、全候補者21人の公約に一通り目を通した上で、選挙活動の様子を映像等で追った。(だが、どのように具体的に施策を展開し、都政を変えていくのかを提示している候補者は余り見受けられず、殆どが軽薄なスローガン程度のものでしかないように思えた。)

 そもそも、メディアの殆どは、全候補者21人のうち主要3候補のみを取り上げ、他の候補者については極力スルーしてきたように見える。むろん、放送法第13条の規定を知らないマスコミ関係者など存在するはずがないので、その平等性の矛盾を指摘されるリスクを冒してまでどのメディアも同時に主要候補者のみを取り上げたのには、何か裏で暗黙の申し合わせなどがあったのではないかと勘繰りたくなる。

 思うに、マスコミは触らぬ神に祟りなしの精神といおうか、厄介に巻き込まれたくなかったのだろう。そもそも、都選管に届け出れば誰でも立候補できる状況を諒解した上で、変に報道すれば、それぞれの候補者の背後に存在する支持基盤、市民団体の矛先となりうる。そちらのほうが、マスコミにとっては、平等性の矛盾を咎められるよりも大きなリスクであったのかもしれない。といっても、露骨にスルーするのも危険であるということだろうか、現実にマスコミが取った報道手法は、「候補者一覧を数秒だけ画面に映し出す」というものだった。

 ところが、ここ数日のあいだに、その常識は打ち破られた。以下の記事によれば、候補者有志がBPO及び在京キー局4社に対し報道是正を訴えたことで、民放が主要候補者以外についても、積極的に報道し始めたとのことである。

 ただ、私は前日まで仕事があり、殆どテレビを視聴できていなかったので、残念ながらこのあたりの真相は分からない。ただ2日前、今更になってキー局の取材が初めてあったという、とある候補者の発言を目にする機会はあったので、候補者をめぐる報道の流れが変わっているのは事実かもしれない。

 話は変わるが、安田浩一著『ヘイトスピーチ 「愛国者たちの憎悪と暴力」』(文春新書、2015.5)を読んだ。ヘイトスピーチの実例を仔細に挙げ、ヘイトは罵声や言論の一形態などではなく迫害であるが故に絶対悪だと非難したうえで、被害者の心の痛みに寄り添おうとする。

 強く印象に残ったのは、中学2年の女子学生の虐殺発言である。「大虐殺を実行しますよ!」と大声で叫ぶと、街宣参加者が「そうだぁ!」と拳を突き上げて同調する。彼女の父親も、「(発言については)全く問題ない」という。著者は、こういった周りの大人たちの卑しさを指摘した上で、いかなる軽はずみであってもマイノリティの殺戮を煽ったこの少女を赦すことはできないという。他者を殺める意思があろうがなかろうが、その発言自体が絶対悪である。それは「言論ではなく迫害」であり、「心臓にナイフを突き立てて深く抉る」痛みに等しい。世界中の歴史を紐解けば、あらゆるジェノサイドは軽はずみから始まっており、軽はずみだからといって断じて赦すことなどできないと。

 悪質なヘイトの現場を本書で初めて知った者がいるとすれば、どのメディアも報じないことを、危険を顧みずに実名で公表し批判した著者に対し、勇猛果敢な人物であるように思うだろう。もちろん、ヘイトスピーチという新たな現象を徹底的に暴いたこの本を読むならば、筆致や著者の態度等も含めて、これぞ正統派のノンフィクションだという思いを持つだろう。だが、何らかの瑕疵があるとすれば、ヘイトは絶対悪と断罪する一貫した論調において、ニュートラルな態度を見出すことができないという点である。つまり、私が大学時代に偶然に目にした(本書で挙げられている某市民団体の)ヘイトの光景を思い出してみても、著者のスタンスは悪質な事件を追い駆け糾弾しようとするジャーナリスティックな態度であって、傍観者的な意味でのショックとは乖離している感が否めない。

 むろん、どんな理由であったとしても暴言を吐き人種差別をするのは絶対に赦されることではないし、その発言が仮に妥当性を有するとしても、公衆の面前でマジョリティがマイノリティの民族・人種・性などの生得的な属性を罵り、迫害を加えるなど言語道断である。表現の自由というありきたりな問題圏で片のつく話でなく、人権、人間の尊厳を蹂躙しているかどうかという問題であって、何一つ斟酌する余地のないことは明白である。だが、加害者側がすべての場合において、議論したり対話することを拒んでいるかといえば、必ずしもそうではない。ましてや、「議論する気がないのに、単に喧嘩をふっかけているだけ」という著者の視点はフェアといえないし、(実際は大方そうなのだとしても)それもまた、一種の偏見であるようにも感じる。人間が人間として向き合う以上、具体的に加害者側の意図を理解した上で、しっかりとした説明に徹することが求められる。

 いや、何を甘いことを書いているのか、分かりやすく具体的に説明して分かる相手ではないだろう、という声が聞こえてきそうである。確かにその通りである。人の良さそうな人物が丁寧に真面目に説明しようとしても全く相手にされず、謂れのない差別的暴言を次から次へとふっかけられるに決まっているからである。だが、それが著者が指摘するようにハナから目的のない単なる憂さ晴らしのようなものにすぎないのか(たとえば、この本で挙げられているある人物についても、憂さ晴らしのために都知事選に立候補までするとは思えないのだが)、それとも毅然とした態度で丁寧に説明すれば一定の合意が可能であるのか、そこを見極めることが重要ではないか。

 ちなみに、著者は「靖國」というドキュメンタリー映画を観たことがあるだろうか。それはさておき、加害者側がその思想を有するに至った動機のようなもの、彼らの日常や生活というものが殆ど感じられない。断片的に動機が紹介されているものもあるが、あくまでも反ヘイトのジャーナリストが突撃取材したという印象を拭いきれない。(たとえば、春の叙勲の受章者である某宮司が、「私の発言をヘイトだというのか!」と顔を紅潮させ激昂する件があるが)そもそも、「ヘイトスピーチ」という概念そのものも、新聞記者が新聞という媒体で生み出した言葉であり、幾らかの偏見や「転倒」を含んでいるものであることは忘れてはいけない。(著者によれば、初めて「ヘイト」という言葉が用いられたのは、2013年3月16日の「朝日新聞」朝刊:「『殺せ』連呼するデモ横行 言論の自由か、規制の対象か」であるという。)つまり、なぜヘイトクライムではなくヘイトスピーチという概念を作り出す必要があったのか、犯罪性が希薄であるが故にあえて「ヘイトスピーチ」という概念を形成したとすれば、「ヘイトスピーチヘイトクライムである」というテーゼは語義矛盾なのではないか、等々。

 たとえば、神奈川県相模原市知的障害者福祉施設津久井やまゆり園」の殺人事件にしても、「障がい者総勢470名を抹殺する」という容疑者の過激思想は、精神障害によるものではなく、ましてやダイバーシティへの無理解や想像力の欠如などでもなく、ヘイトクライムに該当するのではないか。ヒトラー流の過激思想に基づいた、障がい者というマイノリティを標的に狙った凶悪犯罪であり、れっきとしたヘイトクライムである。彼の思想と対峙し、それがいかに愚かで剥き出しで薄弱であるかということと向かい合うことを通じてしか、解決の糸口はないのではないかと思える。更生させようとしても簡単に更生できる相手ではないのであって、真正面から向かい合うべきは、彼の大量殺戮の思想そのものであり、そこからは対峙する人間も逃げられないはずだ。

 「クライム」であれば簡単に犯罪扱いできるとしても、それが「スピーチ」である以上、何か引き金となる事件が起こらないかぎり、犯罪とは見做せない。事実上は同じだとしても、論理上は同一視できない。ヘイトスピーチは、「スピーチ」であるが故に厄介極まりない代物である。いまだ対策法の必要性が真剣に考えられていないので、それぞれがヘイトを正しく理解し認識することで、ヘイトであるか否か、を正しく見極めることが求められている。ケースバイケースとは思うが、ヘイトスピーチの事例集などがあれば理解しやすいのではないか。たとえば、「差別主義者特有のフレーズ」(「第4章 増大する差別扇動」)で紹介されている、「韓国人の友人がいる」「(米国の場合は)I have black friends.」などの言い回しは私も耳にする機会が多かったので、ヘイトスピーチの典型的なフレーズの一つとして覚えておくとよいかもしれない。