Cashew books

本を貪るのは好物のカシューナッツを食べるのに似ている

山野浩一『X電車で行こう』

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 先月、山野浩一氏が逝去したことを知る。数年前からブログを拝読していたので、抗癌剤治療を続けておられたことは存じ上げていた。主に競馬評論の世界で著名であり、作家としては寡作であったが、彼の作品は今でも全く色褪せない傑作である。個人的には文学界の巨星墜つといった感であり、文芸誌が今こそしっかり追悼特集を組んでくれると信じている。

 『X電車で行こう』(1973, 早川書房を初めて読んだのは高校生の時分だった。文学好きの私はさしてSFに興味がなかったので、SFではなく倉橋由美子論が山野氏に出逢ったきっかけだった。1981年3月号の「ユリイカ」で、山野氏は「女性的前衛小説について」という評論を発表しており、「パルタイ」「スミヤキストQの冒険」といった初期作品で倉橋は女性的前衛として「反理想主義をかかげてアイデンティティの最前衛に立ってい」たが、後期、主に「夢の浮橋」以降において思想的に闘うべき対象を見失ってしまったと指摘していた。倉橋から多大な影響を受けた身として歯痒いところがあったが、後期の倉橋が日本文学のダイナミズムから必然的に脱落していったという読みは鋭く、的を射ていると思えた。また、山野氏の倉橋論からは深い洞察力を感じて、脊髄反射的に反倉橋の旗幟を掲げる他の作家たちのそれとは決定的に異なっていた。

 つまり、私は彼の評論をきっかけとして、作品世界に入っていくこととなったのだが、『X電車で行こう』はSFが苦手な私でも抵抗なく、面白く受け入れることができた。そこで展開されていたSFは事象ではなく意識が追求され、私が想定していた従来のSFとは異なるものであった。「NW-SF」で、彼はSFの新種(Speculative Fiction)と宣言したが、寧ろSFの新種というより、純文学の異種として捉えるべきなのではないかと思った。というのも、山野氏自身がSFだけでなく純文学の世界に対して幅広い知識を有しており、三島由紀夫安部公房などの作家に憧れ、同時代の文学を射程としていたからである。たとえば、安部公房もSFこそが文学の未知の領野を開拓する契機になると期待していて、X電車の推薦文で、「もしあなたが、現実主義者なら、気の合った魔術師とここでテーブルを共にできるだろう。逆にあなたが、空想家なら、気の合った合理主義者とここでテーブルを共にできるだろう」と書いたという。(「アヴァンギャルドとSF」「國文学」1975年3月号、190)

  「X電車」では電車やジャズについてのマニアックな知識が披瀝され、それだけでも充分面白いのに、緻密な論理や観念で構築された世界を、全き他者である存在=神であるところのXが突き破ってくる、そのダイナミズムを感じるところが最も面白いように思う。Xは常に人間の意識の埒外にあり、捉えようとしても捉えることができない。人間などXに翻弄される側でしかない。たとえば、X電車の進路予想でたまたま忘れていた東横線と銀座線を奇しくも回避したことで、愚かにも人間がXを掌握したかのように錯覚するが(巫女的存在として同時にインターメディエートしトランスレートする)、最後の結末で判るように、「X」についての詮索は全く無効であり、雲をつかむような話でしかない。

 Xをいかに描くか、というのは山野氏だけでなく、三島や安部も挑んだ同時代的な問いでもあった。その問いに対してオーセンティックで、かつアヴァンな答えを提示したことは疑いようのない事実である。しかし、現実には多くの文学者から黙殺されてしまい嫌気が差した、というのがもしかすると寡作の理由だったのかもしれない。

ラベンダーのサシェ

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 関東地方は梅雨明けしたそうですが、東北地方はまだ雨が降り続いている。僧侶の方々にとっては夏安居の時期、私も真似して大人しく自室で本を読みながら過ごしている。あるいは、庭に咲いたラベンダーを眺めて癒される。

 庭に咲いているラベンダーは、フォーボーストーム、ミスキャサリン、ロングホワイト、グロッソグロスブルー、バルセロナローズ、アラビアンナイト等々。とくに、ミスキャサリン(写真上)イングリッシュラベンダー系の品種ですが、定番の紫色ではなく、淡いピンクの花が可愛らしくて癒される。隣で咲いているのがフォーボーストームで、こちらは優しくて淡い青の色合い。

 この2つの品種は早咲きですでに摘んでしまったのですが、ラバンディン系のロングホワイト、グロッソグロスブルーなどはちょうど数日前から咲き始めたところ。でも、バルセロナローズに関しては、なぜか咲く前に枯れてしまったようです。鮮やかに咲いてくれるのを期待していたのですが、残念。休日にラベンダーを愛でるのは割と楽しく癒される時間で、日曜の夜になると、ああ、明日から仕事だなと思い、「わたしたちに許された特別な時間の終わり」岡田利規という言葉を想起してしまったり。

 摘んだラベンダーは油塗れになりながら乾燥させ、少量のクローブを混ぜてサシェ(香り袋)を拵える。数年前にマルセイユ在住の友人から頂いたサシェがあるのですが、そのサシェも数年経って鼻を近づけないと香りが嗅ぎとれなくなってしまい、新しい中身に入れ換えた。

 ほかに、「あずきのアイマスク」というホットアイマスクのグッズからヒントを得て、ラベンダーと小豆で目元にあてるアイピローも作った。寝る前とか、本を読んで目が疲れた時などに使用すると、一瞬で強烈な眠気に襲われます。癒しグッズとしておすすめです。

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 そういえば、「影裏」が芥川賞を受賞したとのこと、おめでとうございます。この作品については、文芸誌が発売されてすぐに読んでいた。というか、4月9日のエントリーで書いていました。

 盛岡市在住の作家さんであることから盛岡市内ではお祭りムードになっていて、素晴らしいことであると思うのですが、この作品を芥川賞として認めるかどうかの是非についてはそれなりにひと悶着あっただろうと思う。

 松浦氏が評するように、この作品には謎かけもなければ仄めかしもなく、淡々とした筆致で描かれるだけで、読者に何らかの読解を強いるということがない。(「つまびらかではない部分はあってもこれを説明せよ、理解せよという文学的誘惑・媚態を示さない」松浦氏の選評より)それは確かに良識から生み出された技術であるかもしれないけれど(プールサイド小景以来の省略的手法の復権ではないかとも思うわけなのですが)、言葉の起源、源泉をどこに求めるかであったり、文学作品にシンボリックな仕掛けを導入するという意識が希薄になってきている、あるいは忌避感が強まっているということでもあるのではないか。じつは、これは前に受賞した又吉さんにも共通して言えることだと思う。(文学的な道化性と社会的な笑いの面白さは異なるものであり、同じテクストに原理的に混在できないと私は考えている。)

 個人的に私は、言葉が意識の表層のレベルではなく、メタファーとして機能し、神話化のレベルまで誘うのが作家であるという認識を持ってきた。おそらく、何年もそういうレベルで前衛的な挑戦を続けてきたのが、他ならない鹿島田さんなのだ。彼女が受賞会見の時に「苦節14年」という言葉を発したのは、現代の文学シーンで「神話のダイナミズム」をメタファーとして描けるのは唯一自分だけだ、という意識があったからだと思う。アリストテレス詩学第9章ではないが、三島も大江も歴史と相違するものとして、文学の蓋然性を考慮し続けてきており、それが文学史の正統に棹差す流れであると思う。たとえば、中上のメタファーが雑で許されたのも、テクストとしてダイナミズムを形成し、読者が未来への展望を抱くことができたからだと思う。

 個人的に懸念しているのは、ここ数年の芥川賞は、たとえば鹿島田氏等が狙っていたベクトルとは逆方向に展開しているということ。神話のダイナミズムをネガティブなものとして、「文学的誘惑・媚態」と切り捨てた松浦氏の態度が正しいものであるかどうかについては、改めてしっかりとした議論が必要なのではないかと思う。

県庁食堂の味噌ラーメン

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  じつは、数日前に夏風邪を引いてしまった。鼻水と咳が止まらないうえに、39度近い高熱に魘されるという悪循環に陥ってしまう。しかも、忙しい時期で深夜まで残業する日もあったりして、絶対に休めない状況だった。

 そういう状況にあって救われたのが、食堂の味噌ラーメン、450円也。ふだんは昼食はモアロクリームというパンをつまむだけなので庁舎内の食堂は利用しないけれど、栄養を摂って精をつけたほうがいいと同僚から言われ、頻りに食堂へ通うことになった。(さすがに毎日行くのもあれなので、きょうはパンで良いですよと言うのだけれど、なかば強引に連れていかれ……)(周りを見回すと、同行した同僚を始めとして冷やし中華を食べている人の多さたるや。そりゃあ、確かに暑いですもんね。マスクを外して、ラーメンが伸びるのも気にせずに写真撮影をしている私のほうがよっぽど怪しいですね……。)

 不思議なことに、この味噌ラーメンを食べると鼻水が止まり、喉の調子も回復するのだった。驚くべき効能である。どこに秘密が隠されているのだろうかと思うが、おそらくこの味噌スープがミソなのかもしれない。(ダジャレ) 甘口でコクのある味噌スープが滋味深く、その味わいにしみじみと魅せられてしまう。なんというか、味噌ラーメンというより、巨大味噌汁と野菜炒めが合体したイメージ。

 高齢のお母さんが作ってくれるこの味噌ラーメンは、ある意味「実家の味噌汁」と同じくらいの存在感を放つ。プロのラーメン店主が拵えるような「完成された一杯」とは全く異なるものだが、何ともいえないしみじみとした滋味深さがある。低価格に見合わず野菜を多く使っていただいていたり、スープの熱さも火傷しない程度に調整してくださっていたりと、本当に細やかな気遣いがありがたい。甘辛いそぼろの味付けが絶妙で、野菜や細麺と絡めて啜ると美味しく、スープにもとてもよく合う。癒しの一杯を提供してくださることに感謝したい。

 ちなみに、夏風邪は未だ治らず、現在進行形。良くなっている、気はする。味噌ラーメンのおかげ。

漢検1級を受験してきた

 今日、漢検1級を受験してきた。英検1級と漢検1級を取ることを個人的に目標としているのですが、英検1級の方は昨年合格したので、現在、漢検1級に挑んでいるところ。

  漢検1級を初めて受験した感想としては、過去問から想像していたよりもハイレベルだったということ。実は前半を解いているうちは割と手応えがあったけれど、後半になるにつれて、更に難易度が上がっていったように思う。特に最後の文章題では、田山花袋「熊野飛行」、服部撫松「東京新繁昌記」とともに)頼山陽日本外史」からの出題ということで、幕末まで遡るのかと驚きを禁じ得なかった。(文章題の最初の書き問題、「百川の大海にチョウソウするが如く」なんて誰か解けた方いらっしゃるのだろうか……。正答率を知りたいところですよね。)

  自己採点の結果、(一)の読みは23/30点、(二)の書きは32/40点など概ね8割弱をマークすることができたが、合格ラインぎりぎり。前半でこれしか解けないと、まだまだ及ばない。その後が問題で、後半の出来が悲惨なほどダメだった。採点するにつれて、どんどん凡ミスが増えていった。たとえば、「賽」を「塞」、「轆轤」を「輾轤」、「閻王」を「鴛鴦」などと書き誤る失態を犯してしまった。四字熟語は、10問中4問しかできなかった。(合っていたのは、「薏苡明珠」「風声鶴唳」「跳梁跋扈」「朮羹艾酒」の4問のみ)文章題も殆ど分からなかった。

 奇跡的に解けたのが、音訓。「偃す」「麤い」「閼ぐ」などは、2004年度の漢検1級問題集(新星出版)に載っていたおかげで上手くカバーできた。「馳騁」の漢字を無事に書けたのも、三略の文章題に載っていたおかげだった。(この語を見ると、水カンの「メロス」のMVにある内モンゴルの風景を想起してしまう……。)それと、今回書き問題で出てきた「覊束」「噬臍」については、過去問を見返したところ、平成11年度第3回の試験では読み問題として出されていた。今後、未着手の問題に取り掛かることと、愛用している白川静の『字通』を深めていくことが当面の課題。

 仕事で余り時間が取れなかったりして……、といっても仕事で忙しいのは誰しも皆同じなので、言い訳に過ぎない。残された時間を有効活用しつつ、次はリベンジしたい。

十三湖しじみらーめん@本町

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  昨日、クォーターへ水カンのライブを観に行く。次々と繰り広げられる予測不可能なパフォーマンス。つねに期待値に+αで返す、というインプロヴィゼーションの才能は天才的だと思う。期待の範疇を逸脱し破壊するエイリアン的なパフォーマンスなのに、一方で「UDON de SKY, SOBA de SKY」ライト兄弟のコールなど、会場が一体となり決まっていたのが気持ち良かった。(そういえば、なぜかスタッフに関係者に間違われ、裏口に案内されそうになるという珍事件も起きたりしたのだった。不思議な一夜だった……。)

 個人的にツボだったのは、アンコールで竹久夢二をリクエストした女性の声が小さくて、KOM_Iさんが「武富士?」と訊きかえしたところ。

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 さて、その日の夜に何を食べるか。私の中ではもう決まっていて、せっかく本町に来たらしじみラーメンしかない。

  このお店は本町の怪しい雰囲気の界隈にあり、夜8時に開店する。深夜まで営業しているのは、おそらく飲んだ後のシメとして来る客を主なターゲットにしているのだろう。というのも、鶏ガラベースのスープのあっさりとした塩分や控えめな油分、つるつると喉ごし良く啜ることのできる中太麺、タンパク質やビタミンBなどが豊富でヘルシーなしじみラーメンは、シメとして最高に違いない。

 しじみとラーメンというと意外な組み合わせに思えるが、食べてみると抜群に合う。しじみの濃い出汁が琥珀色のスープに合わさり、独特な味わいの深さ、芳醇な香りを生み出しているが、ここに若干縮れた中太麺がからまり、咀嚼すると柔らかすぎず硬すぎず、つるつると滑らかな喉ごしで流れていく。しじみとラーメン、この組み合わせをこれまでなぜ誰も考えなかったかと訝しがるほどに旨い。私もたまに鶏手羽先や煮干しでラーメンをスープから煮出したりするが、この美味しいスープは絶対に真似できないと思う。 これだけ澄んだスープにするにはかき混ぜるのも禁物であるほど慎重な作業が必要だろうし、単なる魚介系のものにとどまらず、鶏ガラや野菜などで出汁がとられており、何ともいえない芳醇な出汁の香りがするのだ。

 確かに都会の今時のラーメンと較べれば、王道のラーメンではないかもしれない。ましてや、「しじみラーメン」などといえば特産品のために安易に考案した郷土料理などと色眼鏡で見られてしまうかもしれない。だが、この完成された一杯を前にして、そのような邪推は不要であることを申し添えておきたい。2年前に宍道湖のしじみを食べたことがあったが、やはり十三湖のしじみとはどことなく味わいが異なる気がする。とはいえ、両者ともに店頭に出回っているしじみとは一線を画す、非常に質の高いものである。このしじみラーメンは滋養強壮の一杯として、毎日の仕事や飲み会で疲弊した多くのサラリーマンを救ってくれるだろう。

 ちなみに、青森本店のほか、東京秋葉原にも2号店があるらしい。東京にお住まいの方は是非、足を運んでみてはいかがだろうか。「あっさり」(本店1番人気)と「コク」(本店2番人気)の2種類から選ぶことができるので、その日の体調や気分に合わせていろんな味を試してみていただきたい。

鯉の甘煮

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 先日、ニテコ名水庵で鯉料理を食す機会があった。久しぶりに甘煮、鯉こく、あらい、たたきを堪能した。生臭い鯉の後味を想像していたのに反し、すべてが淡白な味だった。たたきも上品な味噌の香りがするし、あらいの刺身も全く生臭くない。甘煮も生臭みがないし、くどさもない。ここまであっさりと澄んだ味なのは、名水で有名なこの町で生育した鯉だからで、至るところから透明できれいな水が滾々と湧き出しているこの町の良質な環境に由来するように思える。ただ、私にはその「食べやすさ」が果たして良いことなのかどうか、疑問に感じざるをえなかった。

 この時思い出したのが、宇能鴻一郎の『味な旅 舌の旅』(中公文庫)というエッセイ。このエッセイは食をテーマにしたもので、個人的に何度も読み返すほど好きなのだが、鯉の黄金煮と称する料理が出てくる。宇能はこの料理の濃すぎるタレとゼラチン質の脂肪の脂っこさに感激し、お椀に残った透明な脂肪を底のタレごと啜り込み、さらには水を飲んでもいつまでも口中がギトギトしているような脂っこくて味の濃い料理が最低一品なければ飯を喰ったことにならないという自説を開陳している。

 その理論的根拠こそ、人間の存在に対する問いなのである。彼は、「自分以外のあらゆる存在を、わが身に取入れたい、熾烈な願望のようなものがある」という。味の濃さとは他者が自らの身体をどれほど侵犯するかに係わってくることなので、それによってこちら側もどの戦術で応じるかということを吟味しなければいけない。舌なめずりするような尾を引く料理というのは、たとえばS1…Snへの拡張においてSkを発見すること、未知なる他者との邂逅であるといえて、当然、高度なタクティクスが求められる。宇能が食事の後の「口直し」という行為を批判するのは、人間はそもそも他者性に対してどれほど寛容でありうるのか、他者を無視して自らを正当化するほど愚かな生き物なのかという問題意識があるからだろう。口直しとは結局、他者から侵犯された事実を消し去り、自己の都合の良いように正当化するためのセラピーに過ぎないのではないか。

 鯉料理を食べているあいだ、その宇能的な鯉の身体侵犯説が脳裏をよぎり、期待していたほどに生臭くなく人間の味覚に馴染み、向こう側から侵犯されないという事態に戸惑った。というのも、苦みや臭みを感じないことが物足りなく感じられてしまうだけでなく、味覚の調子が狂ってしまうのだ。味に対する批評は、そもそも他者に侵犯されなければ生じえない。メラニー・クラインではないが、他者に侵犯されているという事態が葛藤を引き起こすがゆえに、「対象」との相関が絶滅と保護の問題に移行するのである。

 鯉料理を食べた後、知人と店の敷地にある池で泳ぐ鯉を眺めていた。鯉が岩の下にそっと隠れ、尻尾だけを静かに覗かせていた。人間の気配に気づいたのか、しばらく微動だにしなかった。静かな、ゆるやかな時間が流れていた。潺潺とした清水の流れを眺めていると心が洗われて、透き通った水底の石は地面の石よりも輝いて見えた。そうして川のせせらぎの音に耳を澄ましていると、どこかで鯉の飛び跳ねる音が聞こえたりした。

吉田屋@大月

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 先日、山梨の富士吉田市へ訪れる機会があり、吉田屋の肉きんぴら月見を食べた。麺は田舎風の極太手打ちうどんで、茹でキャベツ、馬肉、きんぴら、生卵などが載っている。前々からこのような郷土料理が吉田にあることは知っていたが、味が想像しづらく実体が不明であったため、どんな味か気になっていた。

 注文してからすぐに運ばれてきた丼を見て、男らしいその豪快な面構えに驚いた。箸で麺を持ち上げてみると、見たこともないほどに太く、ねじれている。噛んでみると非常に弾力とコシがあり、何度も噛みしめているうちに顎が疲れてくる。それほどの強度なのに、噛めばかむほど小麦の味がしっかりと感じられてきて、噛んでいることが至福に思えてくる。あまりに太く弾力がある麺なので、普通のうどんを食べているような感覚でなくなり、手打ちされた太麺の美味しさというのを知った。

 両手で丼を持って汁を啜ってみると、濃い目の醤油ベースだった。熱々で非常に美味しく、その濃さに喉が渇くと思いながらも、抑えきれずに啜ってしまう。この濃い目の出汁に、馬肉、きんぴらや茹でキャベツが合う。馬肉も全く野性味を感じることがないし、細切りのきんぴらも一口大のキャベツも過度に主張することがない。あくまでも主役である手打ちうどんの美味しさを累乗的に引き立たせるためのものであり、必要不可欠な脇役なのだ。吉田のうどんにとっての馬肉・キャベツ・きんぴらは、桃太郎における猿・雉・犬のような存在なのかもしれない。

 そのようなことを考えながら、卵に箸を突き刺してみる。とろっと流れて出てくる卵が汁に沈んでいき、麺を箸で持ち上げると卵が絡みつく。口に運んだ瞬間、鉄鎚で後頭部を叩かれたような衝撃が走った。先ほどまでの食の世界観が崩れ落ちたのである、これは確かに一種のコペルニクス的転回に違いなかった。それまで目の前で起きていた男たちによる狩猟のような殺伐とした世界の中に、感傷的な光が差したとでもいおうか。唐辛子の辛いすりだねが常備されていたが、これを少し加えてみるとピリッと刺激がきて美味しく、また違う味の印象になった。

 その日は夜になっても何も食べなかったほど、腹持ちが凄かった。周りにお代わりしていた人もいたことを考えると、量はそんなに多いというほどでもない気がするが、とにかくしばらくはもう何も食べる気になれなかった。おそらく、それは歯応えのせいだろう。味わったことのない弾力とコシのあるうどんの歯ごたえ、それに次ぐ馬肉のほどよい硬さときんぴらとキャベツの歯ごたえも合わさり、様々な歯ごたえを味わうことができる。私は、歯ごたえというのが旨さを追求するうえで重要なファクターであることを忘れていたことを認め、反省せざるを得なかった。吉田のうどんの最たる魅力、それはおそらく歯ごたえに他ならない。

 富士吉田の織物業が隆盛を極めた昭和初期、織物の機械を動かす女性の手を止めないように、また織物を扱う女性の手が荒れないように、男性が女性の代わりに昼にうどんを練る習慣ができたという。男たちは腹持ちがよくなるように食塩を加え、力任せにうどんを練ったことで、これほどまでに弾力とコシのあるうどんが誕生したという。この歯ごたえのもとに女性を支えるべく男たちが料理に従事したという慣習があったとすれば、運ばれてきた丼を見た瞬間、一種の野性味や豪快さといった第一印象を受けたのも、あながち間違いでなかったのかもしれない。豪快さについて考えることが歴史の深さを知ることに繋がるとは思わなかった。