Cashew books

本を貪るのは好物のカシューナッツを食べるのに似ている

The Clever Rain Tree

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 年度末ということで土曜出勤する。僭越ながら、昇任祝いということでお花やお菓子などを頂いたりして、大変有難かった。

 勤務先の近所にある和菓子屋で知人とお茶をする。和菓子屋なのにランチプレートというのがあるらしく、注文してみることに。俵型のおむすび、お稲荷さん、真薯のお吸い物、卯の花、漬物や饅頭などが載っていて、質素だけれど品が良く、心のこもった料理だった。実家の料理を食べているような既視感というか、懐かしい感覚もあった。

 それよりも、なぜ写真を撮るときに汁物のお椀をとらなかったのか、と反省している。

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 押入れを整理していたら、大江氏の「レイン・ツリー」こと、『「雨の木」(レイン・ツリー)を聴く女たち』)が出てきた。中学1年の時、ピアノの習い事の帰りに、たまたま古本屋で購入したもの。大江作品の中で最初に読んだのがこれだった。当時はこの小説のテーマがよく理解できていなかったと思うが、鞄に入れて学校に持って行ったりしていた。

 当時、中学1年の国語教科書はわりと好きだったけれど、読み物としては物足りなさを感じた。近代文学は濃いものもあり充実していたが、特に現代文学のほうが物足りなかった。その時に、古本屋で購入したこの本は私にとって重要で、私にとっての現代文学のテキスト、模範として、その物足りなさを充たしてくれた。

 何よりも驚いたのは、描かれているテーマは難解でありながらも、一つひとつの文章が明晰で洗練されているということ。風通しの良い文章だった。従来の他の小説にみられるような、思想の難解さに応じて晦渋さが増すものとは決定的に異なっていた。たとえば、テクストを氷上に喩えて、いままでの現代文学がスケートだったとすると、この読書体験はスキーのような圧倒的な明快さがあった。こういう洗練された文体=骨組によってどういう建物を築き上げることができるのだろう、という好奇心ばかりが募った。中学生には意味の解せない箇所も多かったが、それでも常に面白さが止まらなかったのは、そのコントロールされた文体への好奇心ともいうべきものが、読み進める上での原動力になったからだったように思える。しかも、その後に読んだ「芽むしり仔撃ち」の文体は、それとはまた別の制禦の理論に依るものであると思えた。(余談だが、クノーの文体練習を知ったのは高校に入ってからだったが、一つの対象を描くとしても99通りの叙述の方法があるということに、文体は作者の精神の蠢きを映す鏡ではないという事実を証明された気がしたのだった。)

 それにしても、この本に出てくる料理はどれも珍しいものばかりで、食欲をそそられた。料理を描くことは文明論に係わることであり、国際的な問題でもあるということを知った瞬間であった。当時、(本作に登場する)「パパイヤ豆腐チャンプルー」を作ってほしいと親に懇願したら、全く違うビーフンの料理が出てきたのを憶えている。

Florentins

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 特に予定のない休日には、フロランタンをつくる。幼い頃には頻繁に作っていた憶えがあって、家族団欒の年中行事としての趣きもあった気もするが、しばらく遠ざかっていた。今はただ単純に食べたいから作るだけのこと。周りの焦げてパリパリした部分が美味しくて手を伸ばすので、先に外周の部分から無くなっていく。

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 大学時代の友人が大手新聞社で記者をしているのだけれど、久しぶりに長電話をする。(といっても、殆どは懐かしい思い出話や近況報告に終始したわけですが……)

 ここ最近の報道の在り方について、余りにもアンフェアではないかと疑問に思うことが屡々あった。客観的事実を積み上げていき、その上で科学的分析を行うという基本が踏み躙られているという気しかしない。それどころか、人権侵害の域に達したように思う。そのジレンマについては、友人も散々思い悩んでいるようである。

 なぜか証拠能力のない人物の発言が大々的に取り上げられ、証拠としての妥当性を精査することもなく、一般人が疑惑の対象となったり、証人喚問されるという事態も理解しがたい。しかも、(K氏を例にとってみれば)与党は参考人招致すら躊躇っていたにもかかわらず、一転、証人喚問に応じた理由が「総理への侮辱」という不可解なものだが、この世界には人の数ほど「侮辱」は存在しているわけで、マスコミが取り上げないから表面化しないだけの話である。リテラシーのない記者によって証拠能力のない人物の発言が証拠として取り上げられ、世間を賑わせるという構図自体に問題があるのだろう。内閣支持率47.6%というのも、こういった証拠不十分や報道のノイズによるものかと思うと、いたたまれなくなる。森友学園の写真とともに総理の姿が映し出されたり、国会で声を荒げる姿が映し出される。信じられないことだが、それだけで煽動されてしまう人も案外多いように思える。

  それにしても、中学や高校時代に本を愛読していた作家や評論家などの文化人が、それらの証拠不十分な報道に加担し、一私人の実名を挙げて攻撃しているのを見るにつけ、さすがに幻滅し辟易してしまった。攻撃の矛先はそこではないだろうということで、(あれほどの資料価値の高い本を書いた人にもかかわらず)大体なぜ事前に論拠を精査しないかと不思議でしょうがない。この純粋培養的に醸成された産物というか、時代遅れの「文化人的態度」……とりあえず、権力者を批判すれば文化人らしさを示せるという「文化人」の態度は、最も文化人たるべき者から遠ざかっているようにしか思えない。そういうポーズとしての批判は、私が最も軽蔑し、忌み嫌うものに他ならない。何度も言うけれど、表現の自由云々以前に、幼い頃に本を読んでいた著者がここまでリテラシーがなく、無条件攻撃を加えるような思考回路の人だったかと思うと、とにかく情けなくてしょうがなくなる。

 私が大好きな言葉に「侮蔑の天性」というものがある。三島の『仮面の告白』で出てくる言葉だが、これだけ鋭く本質を突いた言葉は余りないと思っている。善人悪人問わず、公人私人問わず、この「侮蔑の天性」(むろん、他者を傷付けるという意味での侮蔑ではない)が生来的に備わっていて、その天性を気高く、余すところなく発揮できる者が文化人に値するのではないかと個人的には思う。今回の報道に接して感じたのは、この「侮蔑の才能」が大半の人びとに欠けており、本来の敵ではなく、何の罪もない人びとへ侮蔑の刃の矛先を誤った形で向けてしまった者が多かったということ。それと、教養の高い人でさえ侮蔑の対象を見誤うこともあれば、一方で普段全くニュースに興味がない人でもフェイク(というか、過剰なまでの圧力、歪曲?)をすぐに見抜いていた人もいたということ。メディア・リテラシーが本当に必要なのは、受け手側よりも送り手側の方なのではないだろうか。

 

震災から6年目を迎えて

 あの震災から6年目を迎える。土曜日だけれど、家にいられるような心境ではないと思い、ボランティアの手伝いをさせていただいた。非常に貴重な経験であったが、震災の翌年に参加した時のボランティアの過酷さと較べると、あっという間に時間が過ぎてしまったように思う。

 震災の翌年の3月11日、多くの方が亡くなった某震災遺構の解体に伴い、大量の白い土嚢袋に泥のこびりついたがれき、ガラスの破片などを分別し、トラックに積んで運んだ。3階での作業だったため、土嚢袋が4袋ほど一杯になると、土嚢袋を担いで何度も階段を駆け下りた。

 土嚢袋に詰めているあいだは無心で、ひたすら作業に集中した。力を入れた両腕に圧し掛かる土嚢袋のずっしりとした重さ、その実感の確実さこそに支えられた。作業に没頭していると、次第に意識が明晰になってくるものの、状況を客観的に俯瞰する心の余裕まではなかったと思う。

 作業が一とおり終わったのは日が暮れかけた頃で、一人ずつ外で献花させていただくことになった。すべての作業員の纏っている作業服が、誰しも同じように泥まみれになっていた。花を手向け祈りを捧げた時、突然嗚咽する者もいた。当時、それぞれに圧し掛かっていた現実の重圧は、今では考えられないほどだった。

 手を合わせているあいだ、亡くなった方々の霊魂に想いを馳せた。震災は戦争とは異なり、人災ではなく自然災害であり、戦争で敵に殺戮された霊魂ではないということが幾分か救いであるように感じられた。どの霊魂に対しても、どこにも人間の憎悪は存在しておらず、何にも遮られることのない純粋な意味での祈りに思えた。いっぽう、戦争による霊魂の場合、人間に輪廻転生という謎めいた思想を発明させてしまうほどに悍ましいといえる。殺戮という行為がこの上なく悍ましく、人間に憎悪と恐怖を与えるからこそ、大昔の人間は法や道徳などというものをあえて発明せざるを得なかったのかもしれない、と思った。(逆にいえば、法や道徳というものを透かしてみると、人間の醜く卑しい姿がぼんやりと見えてくる気もするのである。)憎悪や嫉妬などの衝動が存在しない世界であれば、そもそも法や戒律などという煩わしいものを創る必要がないからである。

 帰り際、ある遺族の方から缶ジュースの差し入れを頂戴した。それをバスに揺られながら飲んだ時、一瞬、眠気と疲弊に襲われてくらっとしたのだった。朝から夕方ごろまで走り回っても少しも疲弊しなかったのに、甘い飲み物を押し込んだ途端におそらく脳が日常のモードに切り替わって、動物的肉体へ堕落してしまったのだろうか。私だけに限ったことかもしれないが、ここまで人間の脳はフィジカルに従順なのかと思うと無性に恥ずかしくなり、居た堪れなくなった。この卑小な存在はついにシーシュポスにもなりきれなかった、とすら思った。

 その頃、私が尊崇している高橋和巳が、最後の著作『人間について』(新潮社、1972年)で次のように書いていた。「その殆ど徒労といえる労作から、後年になって、その意味が自覚される何事かを学んだのだった。国家の運命、戦争に勝つとか負けるとかいったこととは別な、大事なことが、この世の中にあって、そしてそれは余所目には徒労とみえる作業でしかない。しかも、それは恐らくは永遠に続く」(111) これは戦争末期、四国の山間部のダムが決潰してしまい、農村動員として駆り出された高橋が、泥に埋もれ一面砂地と化した田畑の表層をスコップと鍬で掬わなければならなかった時の回想なのだが、何気なく単純に見えるこの文章に救われたところがあった。

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  帰り際、予約していた「新潮」(2017年4月号)を受け取りに書店へ。又吉直樹の長篇「劇場」が載ると聞いて品薄になると思い、先月末に予約していた。

 「劇場」は、無名の劇団を率いている劇作家の主人公が、売れずに憂鬱とした日々を過ごしていたところ、服飾関係の大学に通う沙希という女性と出会い恋愛を重ねていく話であるが、最も印象深かったのは、ここで描かれる沙希という女性の素晴らしい人間性である。

 主人公である永田が沙希と出会うくだりで、「靴、同じやな」と小さな声で呟くが、沙希は「違いますよ」と否定する。知らない人に話しかけられた沙希が同じ靴なのに嘘をついたのか、それとも、沙希の素直な性格から考えれば、実際は違う靴を履いており、永田の方が会話のきっかけとして嘘をついたのかもしれない。しかし、そもそも「靴」という部分を認める以前に、この女性のただならぬ存在は気配としてテクストに漂っており、その存在の気配になぜか永田の感情は爆発しそうになっている。

 永田は沙希に身勝手な言動をし、都合の良いように振り回しているように見える。それでも、沙希は明るく優しく、寛容な態度で接し、まるで無償の愛を体現する聖母のようである。永田がどんなに酷いことや非礼を行ったとしても、彼のためにひたすら尽くし、聖母のように赦す。拒絶と受容は紙一重なのである。

 又吉が描こうとする女性像は、いつも無償の愛を体現しているように思える。前作『火花』で描かれる真樹についても同じである。私は『火花』という作品を読み終わった後、この女性についての恋愛を更に深く掘り下げた続編が読みたいと切に思った。そのくらい、又吉が描く女性というのは完璧で美しく、多くの男性にとっての憧れであると同時に愛すべき対象であり、文学史を彩る文学作品の多くに描かれる女性像と較べても引けを取らないのではないかとすら思える。

 中盤、夜遅くに帰った永田が沙希と手を繋ぐくだりがあるが、「こんな時間までどこに行ってたの?」から「本当によく生きて来れたよね」までの会話は無駄がなく、純粋に訴えかけてくるので、まさに圧巻という他ない。つまり、いっけん無意味な会話ではあるけれど、通常の言葉では掬い取ることのできないふたりの関係を見事に描き切っている。だからこそ、読者は安全圏から「意味を判定する」ことができなくなり、会話が無意味であればあるほど、胸を震わすことを余儀なくされる。「梨があるところが一番安全です」という言葉には、目を潤ませながら吹きだしてしまった。矢野氏が「恋愛のレイヤー」ではなく更に深い「運命のレイヤー」まで到達したと述べていたが、それはこのいっけん無意味な会話の有機的な拡がりによるのではないかと思う。

 高度な文学性を担保しつつ、世間に膾炙するような文学作品を書くのは容易ではない。あくまでも私の考えであるが、哲学が普遍性を志向するのに対し、文学は社交性というフィールドへ船出すべきものと考えている。社会という審級に対しては、おそらくイギリス経験論くらいしか接近したことはないだろう。もし、小説の担う役割がそこにあるとすると仮定すれば、どうしてもこの小説を読まずにはいられなかった。

某若手人気女優の出家について(2)

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 先週の土日も出張が入ったりして、2週間ぶりの休み。読みたい本アーレント『責任と判断』)を持って、近所の喫茶店へ。ここのバームクーヘンが美味しい。外側は甘いカラメルでコーティングされており、カリッとしていて香ばしい。中の生地はしっとりしていて、バターの濃厚な香りが広がる。いっけん、ねんりん家のバームクーヘンに似ている気がしたけれど似て非なるもの、独自のバームクーヘンという印象。おそらく、いままで食べたバームクーヘンのなかで一番美味しいかもしれない。

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 先日、清水富美加が某宗教団体へ出家した件について書いたが、たまたま聴いていたラジオでも、未だにこの話題がとりあげられていた。しかも、驚いたのは全く意味不明な内容で、「"sengen777"というブログを開設したが、まだ記事は更新されていない」というものだった。「sengen777というブログ」というけれど、タイトルを決めかねてただ単にアカウント名がタイトルになっただけの話だろうし、記事も何も存在しない状態なのに、いったい何を報じようとしているのかと不思議でならなかった。

 こういう無意味でどうでもいい情報に惑わされたくないラジオリスナーもいるだろうし、こういう情報に耳を傾けている時間の消費が無駄としか思えない。ラジオで報道すべき情報の質の劣化というか、ネットニュースとの境目が希薄になったのだろうか。マスコミが主体的に獲得した情報でなく、相手方の策略に上手く載せられているだけのような気がして、ただ単にマスコミ側が執拗にストーキングしている事実だけが残るということに嫌悪感を禁じ得ない。

 神とか仏とか、あの世とか、確かめようのないもの、この目で見たこともないものを、私は信じ、神のために生きたいと思いました。(報道陣への直筆コメントより)

 彼女の直筆コメントの中に、このような一文が綴られていたことを看過すべきでないだろう。おそらく、信仰の核ともいうべきこの一文を抜きにして、彼女の出家を語ることはできないと私は思う。事務所との確執や体調の悪化などは副次的な要因にとどまるのではないかと思われるが、マスコミはあたかもこれが主たる要因であるかのように面白おかしく報道するにとどまっている。つまるところ、マスコミの報道はことの本質から外れており、「神学的な探求心」という問題意識の介在を全く理解していない。

 私は読んでいないので詳しくは知らないが、彼女が出家を決意する直接の引き金となったのは、某宗教団体の代表(総裁)が行った「守護霊インタビュー」というものである。(一個人の意見として、守護霊を喚び起こすというこのイニシエーションについては非常に怪しく、科学的合理性を欠くうさんくさい雰囲気しか感じ取ることができなかった。)生まれながらにしてこの宗教を信奉してきた彼女にとって、崇めるべき存在である彼が守護霊を降臨し、信者にとっては奇蹟ともいうべきこの一連の儀式において(信奉しない者にとっては、ただの「洗脳」にすぎないが)、彼女の等身大の言語に翻訳することを通じて、彼女の存在の在り方を示唆したのである。集団的人間のドラマツルギーの象徴として、この儀式を受け容れざるを得なかったのだろう。この儀式を通じて、幼少期から信奉し続けてきた彼女の人間としての内面にいかなる変容が生じたのかということを理解したいところである。

 彼女にとって、この出来事は奇蹟ともいうべき世紀の大事件といえるのではないか。彼女のサバサバした直感的な性格を考えれば、すぐに出家して宗教家に転身しなければならない、女優としての仕事を完遂している暇などないと思ったとしても不思議ではない。仕事を完遂してから辞めるべきではないかという非難の声が多くあったが、それらの社会的常識や倫理というものは神学的探求とは無縁であり、そうであるが故に社会的な責任をすべて擲ってでも宗教家として身を挺するべき、と考えたとしても不思議ではない。そもそも、宗教というのは人間の内面のドラマを重視してきたのであって、社会というものと一定の距離を置き、隔絶されたところで存在してきたのではないだろうか。とはいっても、私はこれまで宗教を信奉したことがなく、今も信奉していない人間であり、門外漢なのだけれど。

某若手人気女優の出家について

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 23時ごろに仕事を終え、帰宅。きょうは記念すべきプレミアムフライデー第1回らしいが、相も変わらず火の粉のように振りかかる残務整理に追われる。早く撤収して図書館や美術館を愉しむどころか、夕餉のための食堂すら開いていない。とはいえ、夕餉を食べるほど腹が減っているのかと問われれば、何ら空腹なわけでもない。

 こういう制度を企業側が提案するならまだ分かるとしても、国が主導するという意味が全く分からない。土曜に出勤がある人にとっては気晴らしにすぎないのではないか、窓口業務のある部署はどうするのか。等々、本当にどうでもいい愚痴を胸の裡でつぶやきながら帰宅した。

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 時事ネタには余り反応したくないけれど、某宗教団体に有名女優が出家した件。個人的に関心のある女優さんだったし、しゃべくりのエンターテイナーとしても奇抜で面白い人で、何よりさっぱりしていてねちっこさの対極にあるような性格が好きだったので、これだけ世間から不評を買っているのが非常に残念。

 仕事漬けの毎日なのでテレビの報道は殆ど観ていなくて、ネットニュースくらいしか知らないけれど、おもうに彼女自身が「何らかの宣言をする」と自主的にツイートしたことが発端となって、火に油を注ぐように報道が過熱していっただけの話なので、こういうのは当事者から自主的に偽装されたパターンであり、報道バッシングが初めにあるような芸能スキャンダルの王道のパターンとは違っているのではないかと思う。

 その延長で「告白本」が出版されたということも、営業戦略の一環として別に問題はないと思う。そもそも、メディアの報道も有名女優という話題性に便乗し、視聴率や読者層を拡充することが目的であるから、どうして営業戦略のありようを非難できるだろうか、と思えてしまう。双方ともに、有益性という目的のために動いているのであり、どちらも動機が不純であることに変わりはない。実際には、メディアの側がこの教団に一本取られてしまった、といえるだろう。

 私がもっとも不思議なのは、彼女自身の「出家」という事態そのものではなく、出家先であるこの教団に関する報道が過剰であったということである。実際、世間の常識的感覚から見てこの教団がいかに異常に映るとしても(というよりも、当然すべての宗教は無宗教を信奉する者からすれば異常である)、「信仰の自由」を原則として報道上、必ずフェアでなければならない。が、今回の報道を眺めていると、その絶対的な線が少し揺らいでしまったという印象を受けた。つまり、教団の思想をワイドショー化(笑い飛ばすための材料に変換)することで、教団の異質性を浮き彫りにするとともに多数派の正当性を反復的に強化するという効果が生じているが、最も憂慮すべきは、お茶の間で教団の思想や映像が反復的に消費されるという事態が、そういった狙いを超えたところで、計り知れない影響をおよぼす恐れがあるということである。

 私がこの教団を擁護しているわけでは決してない。この教団が単なる出家という報道の対象であることを超えて、まるで何かの容疑をかけられたように過剰に扱われているように見え、疑問を感じただけである。それが度をすぎると人格攻撃、名誉棄損と見做される場合も考えられる。(以前アーチャリーの手記を読み、フライデー問題などこのあたりの報道の難しさについて感じた。ただ、あれは完全な犯罪集団なので、名誉棄損とは別の観点で捉えているが。)不透明なヴェールに覆われている教団を解剖するのは容易ではなく、どうしても憶測の域にとどまってしまうのかもしれない。

 教団に出家するという事態は例外的で特別なことであり、彼女なしには教団という組織が組織として成立しえないほど、彼女が要職的存在に在ることを示していると思う。経歴書が唾液や手垢を附着させながら、上級の機関へと押し上げられていくパルタイという特殊で閉鎖的な組織の構造を想起させられる。いまや、既に彼女は出家し改名した身として組織の一員と化したのであって、組織の代弁者にすぎない。どこまで彼女自身の宣言として信じればよいのかも疑わしく、バックに存在する組織の関与を常に想定せずにはいられない。ともすれば、「不自由という名の自由」というか、ある種の自由を拘束することで別の自由を手にするといったような彼女自身の矛盾した感慨もひっくるめて偽装工作である可能性も当然ありうるのである。

カンパーニュの隕石――「ブルーベリーマロン」「オレンジピールチョコチップ」

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 昨年末、岩大工学部の校舎の裏に、カンパーニュというベーカリーがオープンした。テレビの大食い選手権などで有名な、魔女・菅原氏が開いた店である。パンの焼き上げから接客まですべて一人で行うだけでなく、自家培養発酵種を実験し、数十種類の小麦を使い分けるという拘りぶりを耳にするたび、パン好きの好奇心と昔からのミーハー心が手伝って、なるべく早く一度訪れなくてはと思っていた。

 私の目当ては、ブルーベリーマロン。10時頃に訪問したが、籠の中に2個あり、運良く手にすることができた。ライ麦にブルーベリーとマロングラッセがふんだんに散りばめられている。この組み合わせは絶対に美味しいはずと気になっていたが、口の中に入れた瞬間、想像を超える美味しさが広がった。

 まず、このクラストの男前さに心奪われた。嚙み千切るのに顎が疲れるほどのクラストであったが、噛めばかむほど奥深い風味と滋味深さが広がっていく。外皮が頑強な包囲網を形成しているが、その内側にはしっとりと弾力のあるクラムが存在している。噛んでライ麦の香ばしさに恍惚とすると、間もなく、たまたま噛み砕いたブルーベリーから酸味が広がってくる。マロングラッセの濃厚な甘さと、このブルーベリーの弾けるような酸味のバランスが絶妙で、今まで味わったことのない後味であった。

 せっかくなので、直径20cmはありそうな、巨大サイズのカンパーニュも購入。マリボーチーズのものや、ゴルゴンゾーラチーズと胡桃のものもあったが、オレンジピールとチョコチップのカンパーニュという菓子系が1つだけあったので、それを選んだ。チーズの組み合わせは割と想像できるし、すぐ飽きそうな気がしたので。

 この大胆なクープ、中央にふんだんに盛られているチョコとオレンジピールの山。その武骨な塊は異物であり、外界から突如現れた隕石のようにも見える。人間と食物とのあいだに存在する、見えない透明な幕に火がつけられていく。次第に、このカンパーニュはいったいどんな味なのかという強烈な好奇心が抑えられなくなる。そればかりか、このパンをどのように効果的に食いつないでいくかということや、いったい断面はどうなっているのだろうという好奇心をそそられる。

 クラストを噛んでみるとバリバリとやや固く、クラムはもっちりとしていて芳醇。まさにハードの王道といった感じで、さまざまな酸味と塩気が駆け巡っていく。レジで菅原氏が教えてくれたのだが、カンパーニュに使用する麦は3種類で、メゾンカイザートラディショナル(準強力粉)、ライ麦、南部小麦全粒粉とのこと。この3種類の穀物の相乗効果、自家培養酵母の爽やかな酸味も相まって豊かな滋味が生み出されている。噛めばかむほど、麦の多様性に魅了され、幸せな気分に浸れる。私が私の味覚を制御できなくなればなるほど、口の中が異次元にトリップすればするほど、生態系に欠かすことのできない微生物の力というものに想いを馳せ、すっかり取り憑かれてしまう。

 どうしてもこのパン自体が美味しいので、素材の味を愉しむべく、チョコチップとオレンジピールが少ないところを食べたくなる。それに、チョコチップがあると、トーストした際に溶けてしまうという問題も生じる。たまたま、家にタレッジョがあったので薄く切って、パンに挟んでみる。オレンジピールの甘さが、ウォッシュ特有の塩気と濃厚なクリーミーさとよく合っていたと思う。噛み続けているあいだ、絶妙な味と香りの渦巻きに翻弄されながら、しばし陶然とするほかなかった。

 菅原氏のような大食い女王として著名な方がパンベーカリーを営むことは不思議だったが、考えてみれば、ここまで細部に拘ったパン、大量生産の在りようとは程遠い究極の手作りのパンを焼き上げるには、大食漢でなければならないのかもしれない。ずば抜けて巨大な胃袋を有し、多くの食物を摂取するということは、単純に多量の食物を摂取するという意味ではなく、常に食の可能性を切り開き、探求しているように思える。彼女が作るこのパンは、どこから見ても圧倒的に素晴らしく、まるで隕石のように異物であり、食によく精通した人物でなければ焼き上げることができないと思わされてしまうような、この人でしかこれを作ることができないと確信させられてしまうようなものだった。

フィセルの急進性――ミッシェル「トマトとチーズのフィセル」

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 毎日5時ごろに起きているせいか、休日なのに朝早く目が覚める。先日食べた、ミッシェルというベーカリーの、トマトとチーズのフィセルが美味しかったので再訪することに。

 8時ごろに着いたが、既に店内には行列が出来ていた。お目当てのフィセルを探すと、キッチン側のミルクフランスの横のトレイに一つだけ残っていた。通りすがりに、手に持ったトングで素早く摑み取る。あと数十分早ければ、焼き上がりのフィセルに遭遇できたかもしれないと後悔しながら。

 家に戻り、さっそくトースターで焼き上げる。薄めのクラストがカリっと焦げる頃合いまで、注意深く凝視する。フィセルというのは細くて長いフランスパンで、バゲットよりもクラストの面積が大きい分、硬いカリカリしたクラストを堪能できる。

 昨年、「おいしい文藝」のパン・エッセイ集(『こんがり、パン』河出書房新社、2016年)を読んでいたら、偶然、フィセルに関する阿川佐和子のエッセイが載っていた。フランスのニースにある小さな民宿の朝食でフィセルが出されたそうで、クロワッサンやバタールとも異なる、軽やかで洒落た味わいに魅せられたという。

 それまで、阿川氏はフィセルの存在を知らなかったといい、日本で余り流通していないことを嘆いていた。私もまったく同意見だった。なぜこんなに美味しいものがあるのに、手軽にスーパーで出遇うことができないのだろう。子供の頃から、食パンばかり、いろんな種類のものが並んでいるのが不思議で、フランスパンが少ないことが不満だった。もっとも、クラムよりもクラストを好むフランス人の舌に合うもので(私も比較的そうなのだけれど)、ふんわりとした食パンに馴染んだ日本人にとって魅力的でないのかもしれない。

 とは言い条、ここまで簡単に、田舎のパン屋でフィセルを手に入れることができる。パン屋の探求心に感心すべきなのか、あるいは急進的なフィセル革命が進展しつつあるのか。もし後者であるとすれば、クラスト好きとしては大歓迎である。遅れてきた青年ならぬ、遅れてきたフィセル。フィセル、フィセル、フィセル――。どうしたら、美味しいフィセルにありつくことができるのか、などと休日の朝から考えてしまう病に罹ってしまっている。

 このフィセルには濃厚なガーリックバターがたっぷり塗ってあって、パン生地の中に浸み込んでいる。それだけでも充分美味しいのに、更に伸びのある濃厚なモッツァレラチーズに酸味のあるトマトと香ばしいベーコンが合わさり、複雑なハーモニーを生み出している。この組み合わせが癖になり、手が止められなくなる。いっけん、ピザのようでありながら、全くピザのそれではない。あくまでも、バゲット生地で作られたこのクラストの薄さ、気泡のあるクラムの軽快さがメインとなっており、トマト、ベーコン、モッツァレラチーズ、ガーリックバターはそれほど主張せず、惣菜として副次的なハーモニーを織りなすにとどまっているから。このバランスに、品の良さというものを感じ取ってしまう。

  とりあえず、パンを半分に切って、片方はそのまま食べる。手に持った瞬間、指先にクラムの弾力が伝わってくる。噛んでみれば、クラストのカリッとした食感と、もっちり引きのあるパン生地の歯応えにうっとりとする。残り片方については、縦に薄く切り、更にこんがりとトースターで焼き上げてみる。が、これについては手をつけるのを我慢、しばし断面の構造を眺めやる。夜、お酒のつまみとして嗜もうと思いながら。

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