Cashew books

本を貪るのは好物のカシューナッツを食べるのに似ている

京華@むつ

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 大湊の京華で「帆立味噌貝焼き」を食す。じつは、味噌貝焼きを探して下北名産センターにも寄ったが、冬季期間は残念ながら食堂は休業しており、食べられなかった。

 味噌貝焼き(みそかやき)とは帆立の身、豆腐、葱、海藻などを味噌を加えた出汁で煮込み、鶏卵を溶き入れた下北地方の郷土料理である。一般的には帆立貝の殻を鍋代わりに用いるそうだが、京華の場合は貝殻の形をした鍋に盛りつけられている。

 まず、帆立の身から食べてみたが、噛みしめる度に深い甘みと旨味が滲み出す。さすが陸奥湾の帆立である。おそらく春に収穫した帆立を冷凍しているかと思うが、全く臭みはなく新鮮だった。何よりも、海の幸から滲み出た出汁のエキスが鶏卵と絡み合うことにより、なにか濃厚なソースのようでもあり、まるでやわらかい出汁巻き卵のような美味しさだった。帆立の貝を鍋に見立てる料理は、これまでも各地方で幾つか食べたことがあったが、こういうふうに帆立ベースの磯の出汁に味噌を加え、更にそこに卵を絡めて作る料理というのは初めてだった。

 メニューに「お酒のおつまみに」と書いてあったので、熱燗とともに味噌貝焼きをつまもうと考えたのだが、食べ進めてみると白米の上に載せて食べたくなってくる。結局、白米を注文しようかしまいか散々迷ったのだが、他にもそい刺しを注文していたのと、定食屋ならまだしも、居酒屋で白米を注文するというのも何となく粋でない気がして、泣く泣く断念することとした。

 太宰は、「津軽」で味噌貝焼きについて次のように触れている。

 卵味噌のカヤキといふのは、その貝の鍋を使ひ、味噌に鰹節をけづつて入れて煮て、それに鶏卵を落して食べる原始的な料理であるが、実は、これは病人の食べるものなのである。病気になつて食がすすまなくなつた時、このカヤキの卵味噌をお粥に載せて食べるのである。(「津軽」)

 むろん、太宰が書いているのは「津軽式の貝焼き」なので、下北半島式の貝焼きとは異なる。しかし、この濃厚な卵味噌をとろとろのお粥の上にかけてみれば、間違いなく美味しいはずである。おそらく、私がいままで食べた粥料理の中で一番美味しい料理になるだろうと容易に想見できる。

 当時はまだ結核が不治の病といわれていた頃で、この卵味噌を粥に載せて食べることが最上の贅沢だったのかもしれない。良薬は口に苦しというけれど、こんなに美味しい栄養食なら最高だと思う。それに、貝殻を鍋に見立てて、冷蔵庫にあるものでさっと作れるというのも便利だ。「貝殻から幾分ダシが出ると盲信しているところも無いわけではない」と太宰は書いていたが、やっぱりこの料理は帆立貝の殻で煮込むからこそ、美味しいような気がする。

司バラ焼き大衆食堂@十和田

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 以前から、司バラ焼き大衆食堂という店名をよく耳にする機会があった。仄聞するところによれば、「十和田バラ焼きゼミナール」という市民団体が十和田市の名物・バラ焼きを通じて町おこしの活動を行っており、そのアンテナショップとして知られるのがこの大衆食堂だった。

 大衆食堂といえども屋台のような造りで、夜にもかかわらず大勢のお客さんで賑わっていた。私は迷わずバラ焼きを注文したけれども、友人は「なみえ焼きそば」を頼む。どうしてバラ焼きが名物なのに焼きそばにしたか訊いたところ、「味が大体想像できるから」という。いや、でも食べてみないと分からないよ、と突っ込む。

 玉ねぎが敷き詰められた鉄板の真ん中には、豚バラが堆く積み重なっている。玉ねぎが飴色に色づいてしんなりするまで肉を崩さないよう、店員さんが親切に教えてくれる。たれが煮立ちはじめると、たれの旨味が滴り落ちる豚脂と絡み合い、甘い匂いが充満する。この匂いに、一瞬にして食欲がかき立てられる。このたれは、醤油ベースだが甘じょっぱく、擂り下ろした林檎や大蒜などが隠し味で入っていそうな味だった。

 ここからが時間との勝負である。可及的速やかに豚バラ肉を一枚ずつ剥がして、箸で鉄板に円を描くようにかき混ぜる。焦げたたれ、飴色に色づいた玉ねぎ、程よく火が通った豚バラ肉。この三者が、ベストな状態で渾然一体となる。誰が見ても美味しいと思うに違いない、そう思えるほどの最適解である。

 じっさい、バラ焼きを頬張ってみて、さきの疑問が氷解した。この豚バラ肉そのものが、一般的な豚肉と異なり、それほど脂っこくない気がした。味がさっぱりとしているのは、十分に肥育せずに早い段階で屠殺しているからなのだろうか。ともすれば、十和田の畜産の歴史に係わってくることなのかもしれない。バラ焼きという料理が、十和田の「豚バラ肉」の魅力を最大限に引き出すために考案されたものであるとすると、高級なブランド(肥育期間の長い)豚の旨味を引き出す味付けではないところが興味深い。

 十和田バラ焼きゼミナールのHPによれば、戦後間もない頃にバラ焼きは誕生したという。敗戦後の食糧難の時代にあって、牛肉バラやホルモンは、米軍からの払下げで安価で入手できたため、このような調理方法が考案されたとのこと。韓国のプルコギから影響を受けたのではないかとのことだが、確かに似ている。とはいっても、似て非なるものでもある。プルコギを模倣しながら、少しずつ地元の味に合うように、十和田風に改良してきたのだろう。

 余談だが、阿川弘之の『食味風々録』では戦後、牛の尾や舌、犢の脳味噌は安く売られており、オックステール・シチュー等のハイカラな洋風料理を食べたと記されていたのを思い出した。(むろん、オックステール・シチューなどは一部の特権階級に限られた話ではあるが)外国人が食べずに棄ててしまうモノは、多くの日本人も敬遠した一方で、どうにか食べられないかと試行錯誤をした人々もいた。食材に関する情報の乏しい時代にあって、そもそも食べられるかどうかも分からない中での試行錯誤だったわけである。

魚喰いの大間んぞく@大間

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 下北半島をドライブすることになり、本州最北端・大間の碑まで辿り着く。早朝にもかかわらず、既に数名の先客がおり、記念写真を撮っていた。自分たちも、せっかくなので真似してみることに。といいつつ、じつは、「記念写真」というのが、(風景と人物を同時に凡庸化する装置のようにも思えて)「観光写真」とかいうのと同じくらい、昔から苦手なのだけれど。

 勢いよく風が吹いていて、あやうく帽子が飛ばされそうになる。こんなに強い風にも動じない、一羽のセグロカモメがいた。近寄っても逃げ去ろうとせず、妙に人懐っこい。「H6」という識別番号が左足に装着されていたのを認めた途端、「ロク」という情報が名とも数字とも付かない、曖昧で不定形の情報としてインプットされてしまう。

 碑の向かいにある、「魚喰いの大間んぞく」という店へ。せっかくなので、豪勢に3色マグロ丼を注文する。もう、昼からは何も食べないと誓いながら。

 丼には大トロ2枚、中トロ4枚、赤身4枚が盛りつけられ、まるでマグロの山がいまにも噴火しそうな勢いだった。トロの身はピンク色に光り輝き、冷凍マグロのそれとは雲泥の差である。まずは、醤油や山葵をつけずに口に運んでみる。舌の上に載せただけで、脂がとろりと溶け出し、濃厚な旨味がひろがっていく。大袈裟ではなく、どのような味か、それを意識しようとした瞬間に、もう舌から消え去っていた。中トロであれば、まだ味覚の中に収まるので、どういう代物かを表現できる意識はあれども、大トロの場合はたやすく旨味の臨界を超えてくる。

 心臓の煮付けと胃袋の酢味噌和えも注文する。どちらも市場には出回ることのない珍味である。赤い心臓部は、牛肉のステーキのような食感にレバーのような濃い味。白いポンプの部分は、ホルモンとかガムのように柔らかく噛み応えがあり、旨味が凝縮されているので、噛めばかむほど体内に力が湧いてくるよう。このポンプが、旨味といい味付けといい、卒倒するくらい美味しかった。また、胃袋のほうは、軟骨に近いようなコリコリとした食感で、酢味噌も美味しかったが、できれば刺身で食べてみたいと思った。

 お店の奥さんとマグロの内臓にかんする話をしていたところ、ありがたいことに冷凍した心臓と胃袋を見せてくれた。このまま刺身でも食べられるけれど、心臓は流水で手揉みして血合いを抜いて煮付けにしたり、胃袋は皮を剥いでから酢味噌で味付けして食べたりすることもあるらしい。あまりにも貴重な部位なので、現在、手に入らなくなっており、知り合いに頼んで購入しているのだという。たしかに、マグロ漁師はマグロの心臓を神饌として御神前にお供えすると、子どもの頃に何かの本で読んだのを未だに憶えている。

 マグロの余韻に舌鼓を打ちながら店の外へでると、窓際に二匹の猫がいた。こちらの猫もカモメと同じで、近寄っても動じようとせず、光の差すほうを眺めている。もしかすると、大間のマグロが餌で、それを食べているからここまでタフになれるのだろうか。そのようなことを考えながら、大間崎を振りかえれば、偶然にも「H6」らしきものが羽をひろげて鳥立ちする瞬間が見えた。

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遠野の産直にて

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 2週間ぶりの休み。職場でお世話になっているT庁の方(仮にT氏とする)をお誘いし、遠野までドライブする。あいにく大雪の日で、恐るおそる凍結した路面を走る。T氏は窓から車を眺めながら、「このあたりは皆スタッドレスですね、都会ではスタッドレスなんて金持ちしか持っていないですよ」などと言っていた。

 産直では、鷹の爪、暮坪かぶ、カシス雲(カシスの濁醪、プリン(低糖質!)を購入。鷹の爪はなんと1束100円、泡盛に入れて自家製コーレーグースを作ろうと思いたつ。T氏を探しにいくと、帆立と牡蠣の水槽を眺めていた。おおっ、こんなに大ぶりな帆立や牡蠣は見たことがないぞ、と驚いていたので、牡蠣も4枚買うことに。

 暮坪かぶはいっけん青首大根のような見た目だが、実際に食べてみると紛れもなくかぶの風味そのもの。しかし、大根おろしとは較べものにならない辛さで、心地よく爽やかな刺激に満たされる。「美味しんぼ」という漫画に究極の薬味としてとりあげられたことで有名らしいけれど、たしかに「かぶ」でありつつも立派な薬味として成立していて、唐辛子やワサビにも引けを取らない辛さが癖になる。手打ちしたそばがあったので一緒にT氏に差し出したところ、かぶと思って油断していたのだろうか、急に噎せてしまい、鼻を押さえていた。が、美味しいと言いつつ、結局はすべて平らげていた。

 「カシス雲」というカシスのどぶろくもT氏に差し出したところ、怪訝な表情で口に含んだ後、驚いた様子で「おっとりとした味ですね」と言った。「米麹が原料というわりには思ったより濃厚じゃないかもしれない」と言ったので、「でも、原料は米ですよ。米とカシスと林檎、米とフルーツですよ。この組み合わせ凄くないですか」と訊いてみると、ゆっくり口に含んで味わいながら、不思議そうに頷いていた。

 牡蠣のほうは、残念ながら火を通しすぎてしまい、少し硬くなってしまった。「少し硬くなってしまいましたね」と謝ったが、「いえ、美味しいですよ。こうやって牡蠣を殻のまま焼いて食べること自体あまりないので」と言っていた。「変化球ですけど、これもかけるとまた違った味になって美味しいんです」とクラフトの粉チーズを差し出してみたが、笑いながら遠慮して、残念ながら試してはもらなかった。

 ほろ酔いになったT氏と、仕事の話をした。「百川さんが1人で全部の仕事をやっていて、羨ましいです。なくてはならない存在というか、それはすごい幸せなことだと思いますよ。百川さんがいなくなったら、この部署はひっちゃかめっちゃかになるでしょうね」ということを突然言われたので、どきっとした。「いえ、私なんかがいなくなっても変わりませんよ、Tさんに教わることが大きすぎて」と言うと、「いや、私は駒にすぎないので」「駒?」「本当に羨ましいんです。都会だと、人間って単なるチェスの駒でしかないので」とのこと。笑って受け流したが、日常会話のなかで、不意に「駒」ということばが出てきたのに若干、戸惑ってしまった。

 たしかに、学生から社会人になり、人間関係は友情よりも利害を重視するあまり、さらっとした人付き合いにとどまってしまうのかもしれない。「駒」であるという意識だけで、責任感をもって職務を全うするのは、余りに精神的な負担が大きいのではないか。T氏は、私が抱え込んだ仕事をよく手伝ってくれたが、全く嫌な顔ひとつしなかった。おそらく、そこに自身が人間の駒であるという意識は介在していなかっただろうし、有意味であるということにおいて協力してくれたのかもしれない。

 先日、古本屋で買った『菜根譚(今井宇三郎訳注、岩波文庫を読みながら、次の文章が気になった。

 好動者、雲電風燈、嗜寂者、死灰槁木。須定雲止水中、有鳶飛魚躍気象、纔是有道的心體。(45)

 人間は動かない雲や流れない水のような心境と、鳶が飛び魚が躍るような溌剌なありようの二面性を兼ね備えてこそ、真に道を修得することができる。灯火は激しく揺れ動けば消えてしまうし、逆に何もしなければ火が消えて灰になってしまう。一方的に動にすぎても、静にすぎてもいけないというのである。ともすれば、ゆとりの趣きが必要とされるのは、むしろ激動の時代にあってこそだろう。穏やかな世界にあってゆとりに甘んじることは、灰になることでしかないのだろうか。

お城山クラフトフェア@横手

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 すっかり忘れていたのですが、10月初めに横手のクラフトフェアに行ってきました。

 クラフト好きの知人から誘いをうけて行ってきたのですが、恥ずかしながらこういうイベントが毎年行われているとは知りませんでした。2010年から毎年開催されているらしく、なんでも今年で7年目とか。

 天気に恵まれ、大勢のひとで賑わっていて、楽しそうな雰囲気でした。出展者の方々のものづくり愛が伝わってきたのと、それを手にとったり、味わったりする人もまた嬉しそうな表情で、クリエイティブなものづくりを通じた交流の場があるというのは素敵なことですよね。

 個人的に惹きつけられたのは、宮城県の「陶器パルメット」という陶磁器を作っている職人さんでした。ミステリアスな雰囲気があって、まるで古代の壁画を見ているかのようなデザインが面白くて、数点購入させていただきました。ありがとうございました。

 横手城本丸付近で珈琲を飲みながらしばらく休憩した後、一人で牛沼まで散策した。へら鮒釣りをされている方がたくさんいたのが驚いた。こういう美しい景色を眺めながら釣りができるのはいいですよね。それにしても、城郭の外堀での釣りは条例で禁止されているところが多いと思うけれど、オフィシャルというのは珍しいような気がする。

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海沿いの定食屋のかつ丼

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 海沿いに、ぽつんと建っている年季の入った建物がある。1階は畜産会社の事務所になっていて、2階が定食屋である。店内に入ると、先客はいなかった。ランチはかつ丼定食かローストビーフ定食の2種類あり、知人がかつ丼を頼んだので私もあやかった。

 700円というお手頃価格にもかかわらず、かつ丼のほか、小さいお椀に鮭のあら汁が盛られ、マカロニサラダ、佃煮、蕪と沢庵のお新香までが付いている。目を疑うような安さだった。少量の七味とともに半信半疑で口へ運んでみるが、カツも分厚くてジューシーで、歯応えがあった。いかにも、かつ丼とはこういう味と思うどおりの味で、かつ丼が食べたくてしょうがない人がいれば決して不満足はしない味。個人的に親子丼などの玉子は、火が通っているスタンダードなものが好きなので、半熟ではないところも好感がもてた。

 高齢のお母さんが手際よくかつ丼を器に盛りつけるあいだ、ラジオは太平洋戦争にまつわる話題を伝えていた。先日、岩波文庫の『断腸亭日乗』をぱらぱらめくったりしていたのだけれど、荷風が亡くなる直前に大黒家という食堂でかつ丼ばかり食べていた、ということを思い出していた。荷風が亡くなるのは昭和34年4月だが、3月中旬からは毎日のように大黒家へ通っていた。主に昼に通っていたようだが、夜に通っていたという記録もある。いったい、荷風はどれほどかつ丼を愛していたのだろうか。

 もしかすると、「カツ(勝つ)」というネーミングからして、死や病気に打ち勝とうという思いがあったのだろうか。かつ丼やとんかつなどは、よく受験生のゲン担ぎで使われるが、昔だって同じだったのかもしれない。現代では「受験に勝つ」が主流かもしれないけれど、戦時中は「敵に勝つ」ためにステーキやカツレツを食べたりした。

 ところで、私が食べ物の写真を撮り続けているからといって、別にグルメなのではない。むしろ、普段は外食を殆どしないし、野菜ジュースやコンビニのパンくらいしか食べない。主食はパンなので、必要がないかぎり米というものを食べない。米を食べたのは、10月に写真を載せたカレー以来なので、実質1か月半ぶりである。

 米を毎日食べる習慣というものがないので、米との距離もよそよそしくなっている。何か月ぶりかに米を食べると、日本の米の美味しさというものにきづかされると同時に、思ったより歯応えがあって顎が疲れたりして、米ってこういう食感だったかなあ、と不思議に思えてくる。休日は知人と外食に出かけることが多いので、特にこれといった意味はないけれど、せっかくの機会とばかりにカメラに撮りためている。

伊藤整『日本文壇史16―大逆事件前後』

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 久しぶりに1日丸ごと休みだったので、スコーンを作ってみたりした。近くに住んでいる従妹の家に行く用事があったので、その従妹に差し入れすることに。従妹は高校で教鞭を執っているのだけれど、20代後半の女性の部屋とは思えないほどメカメカしている。何十万もする高価な天体望遠鏡が部屋の中心に鎮座しており、キャビネットもさまざまなグッズで埋め尽くされていたりする。むしろ天体望遠鏡のほうが部屋の主役であり、従妹のほうは客人として追いやられている感じがしないでもない。

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 通勤の合間などに、伊藤整の『日本文壇史講談社文芸文庫、1997年)を読み進めていた。殊に興味深いのが、大逆事件を取り扱った「第16巻」である。第16巻は伊藤が病に倒れたため未完の遺著となったが、文芸評論家・瀬沼茂樹が跡を継いで完成させたものである。

 そもそも、伊藤は大逆事件の経緯をなぜここまで綿密に調べる必要があったのか。それは大逆事件が偶発的に生じたものでなく、いわば反自然主義的な文学的潮流の陰画として、明治末年の文壇の動きと呼応した形で起こったからだろう。*1大逆事件の)関係者は多く明治の文学者としての性格をもって終始することがあった」と瀬沼があとがきで書いているように、たとえば幸徳自身もクロポトキン「麺麭の略取」の翻訳を行ったし、「萬朝報」「平民新聞」をはじめ、大逆事件の多くの関係者が様々な新聞や雑誌の編輯に係わっていた。おそらく幸徳自身の社会主義的な思想の原点は出版界にあったはずで、文学者的な一面も兼ね備えていたはずである。つまり、どれだけ言論を過激化し、文章を煽動的にすれば大衆に受入れられて、政府による弾圧や新聞紙条例・讒謗律等の取締りから上手く逃れることができるかということを幸徳は意識していただろうし、政府による迫害と言論の自由とのあいだで板挟みになっていたのではないかと思う。

 伊藤は大逆事件に関与した人物の生い立ちや人間関係を中心に描いているが、それらを詳らかにすることで、決して大逆事件の実態が明らかになるわけではない。そういう意味において、本書はあくまでも「文壇史」という範疇に留まるものでしかなく、大逆事件の真相や実態については殆ど分からない。*2伊藤が描いている幸徳秋水像は、評論などの執筆をつうじて過激な煽動を行うけれども、現実的に革命的なテロリズムを起こそうとは考えていない、あくまでも思想家としての社会主義者である。たとえば、幸徳は宮下太吉から「筆の人であって、実行の人でない」と思われていたり、須賀子からは「爆裂弾によるテロを実行するつもりだが、あなたは実行に加わりたくないようだから、あとで迷惑がかからぬように縁を切っていただきたい」という旨の話をされている。現代の一般的な認識では幸徳は冤罪の人といわれ、非戦論ばかりが取り上げられるが、おそらく伊藤にとっての幸徳は、「何となく暴力革命の謀略という気配が漂いはじめてい」(38)て、「意味のはっきりしない怪しげな人物がときどき現われ」(75)ることもある、思想的な意味で暴力革命を煽動した人物として映っていたのかもしれない。

 日本文壇史と併せて、徳冨健次郎(蘆花)の「謀叛論」『謀叛論―他六篇・日記』岩波文庫、1976年)を読了した。大量処刑の8日後という、熱冷めやらぬ時期に旧一高で行われた講演である。「今度の事のごときこそ真忠臣が禍を転じて福となすべき千金の機会である」「冷かな歴史の眼から見れば、彼らは無政府主義者を殺して、かえって局面開展の地を作った一種の恩人とも見られよう」と蘆花が述べているように、列国も注目しているかような状況下で彼らの異端思想を排斥せずに、寛大な措置を講じることが望ましいと嘆願しているのである。死刑に処すことが、かえって叛逆者の怨恨を増幅させると感得し、報復を引き起こす可能性を懸念してのことであった。*3無念にも幸徳らは処刑されることとなったが、その後も蘆花は、死刑廃止論者として死刑制度への批判を行っていた。思うに、実質的には冤罪であるにもかかわらず死刑という法律の名のもとに大量処刑へ踏み切った国家権力の暴挙、証拠不十分にもかかわらず簡単に人間を処刑してしまう国家に対する憤懣を抑えることができかねたのだろう。*4

 多くのインテリが口を噤む中にあって、叛逆者を支持すれば不敬罪となる危険性を孕んでいるにもかかわらず、しかも地方ではなく東京で、一高の壇上から、多くのインテリの聴衆を前に公然と「叛逆者」を弁護するという事態がいかに「異例」のことであったか。内容ばかりではなく、公然と弁護する姿そのものが、「真のインテリとはこうであるべき」という教育的啓蒙性を兼ねたものであった。実際、文士の多くは傍観者的態度に徹し、口を噤み、何ら弁護することもなかった。つまり、アンガージュマンというような、連累の意思など然して存在しなかったわけである。とはいえ、閉塞した行き詰まりの時代にあって、さまざまな作品の此処彼処に暗い影を落としていることは確かである。たとえば荷風は、市ヶ谷で囚人馬車を目撃し、「私は世の文学者とともに何も言はなかった。私は何となく良心の苦痛に堪えられぬやうな気がした」「自ら文学者たる事について甚しき羞恥を感じた」(「花火」)とまで書いているが、その良心の苦痛や羞恥は何ら荷風に限った話ではないはずである。

*1:大逆事件の思想と文壇の動向の遭遇を捉える上で、おめでたき文学者たちの浮かれ騒ぎともいえる「パンの会」黒枠事件が終章で描かれており、まさに象徴的である。ちょうど予審決定を迎え、世間が社会主義は危険思想だと警戒している中、ベルエポック的なおめでたき芸術家や文士たちの参集の場が「異常」なものとして捉えられただろうことは想像に難くない。しかも、明治43年11月20日に三州屋で行われた本会では、谷崎と永井荷風が初めて言葉を交わすという、文学史的な意味での事件も起こるのが興味深い。

*2:本書で最も興奮したのは、荒畑寒村が愛する須賀子が幸徳と同棲していると知り、二人をピストルで銃殺しようと構想するが、目的を果たせずに雨の中小田原の海岸に坐って、ピストルを自分の額に当てたが引き金を引くことができないというくだりである。本来「文壇史」という枠内から漏れてしまうような、個人的な事柄が記載されているところも非常に面白い。

*3:「難波大助の処分について」では、このような文章がある。「幸徳を刑し、大杉を殺し、難波大助を出した。難波大助を刑殺して、而して後何ものが出で来たろうか。総じて善も悪も力は級数を以て進み、反動はヨリ募るものである。私は難波大助がその罪に死んだ後の世の中を危ぶむ。死は必ずしも成仏ではない。」

*4:「生きよう。生きよう。努力して死の支配を脱けよう。個的にも公的にも暴力の支払いを脱けよう。/殺を忌もう。同時に殺に酬ゆる殺を止めよう。成仏する仏をつくる死刑を廃しよう。死刑廃止は戦争廃止に先立つ。(「死刑廃止」、50)「僕はいかに酌量すべき余地はあるにせよ爆裂弾で大逆の企をした人々に大反対であると同時に、これを死刑にした人々に対して大不平である。お互に殺し合いは止したらどうだろう。」(「死刑廃すべし」、40)